※刺青です

救 世 主 


月のない夜のことだった。小雨がちらつく窓の外をちらりとながめた藤本は、するりと首筋を撫でられて顔を伏せた。「あまり動かないでください、傷つけてしまうでしょう」と、表情のない声で呟いた浴衣姿のメフィストは、傍らの手ぬぐいの上からニードルを一本取って、「…本当に良いのですか?」と問いかける。「いいんだよ、泣いて召還するのはいい加減面倒だろ」と藤本が言うのは、先日手に入れたウンディーネの事である。水をつ司る彼女は、藤本の血液ではなく精液や汗でも召還できるのだが、ことの他それを嫌がっていて、毎回藤本の涙を欲しがるのだ。藤本のあらゆる体液を舐めてきたメフィストには、それはそれでウンディーネの理由も動機も理解できるし、それが煩わしい藤本の気持ちもわかるのだが、だからと言って藤本の身体に不要な傷がついても良いと言うわけではない。肉体に直接召還陣を描いておけば血の契約が結ばれる。ということはつまり、ウンディーネと藤本の間には直接的な絆が生まれるのだ。

「…私も印が欲しいのですが」と、ため息交じりにメフィストが呟くと、「お前が呼べるほど俺に体力はねえよ」と、藤本の返事は素っ気ない。実のところ、メフィストはそれほど高位の悪魔ではないので、聖騎士の藤本であればそこまで身体に差し触るほどの血は必要ないのだが、わざわざそれを伝えて藤本の信頼を下げるまでもなかった。はあ、ともう一度息を吐いて、これだけは譲らなかった下絵をもう一度指でなぞると、藤本の短い遅れ毛を心持ち掻きあげて針を当てた。「ッ、」と、途端に強張った藤本の背中に指を這わせたメフィストが、「痛いですか」と義務的に問いかければ、「まあな」と押し殺したような藤本の声が聞こえる。メフィストはそこに少しだけ優越感を感じて、つう、と藤本の背骨をなぞると、「痛かったら、私を噛んで良いんですよ」と愉悦そうに言った。「…いや、ここはその晒しだろ、それ貸してくれよ」と、藤本がゆるく巻いてメフィストの横に置いた布を指すので、メフィストはちらりと白布を一瞥して、「これはダメです、あとであなたの首に巻くのですから」とそっけなく一蹴する。畳に敷いた簾の子に横になる藤本の上半身は裸で、少し考えた末に腕を噛もうとするので、「ああ、あなたの身体に傷が出来たら治るまで舐めますから、そのつもりで」とメフィストは噛んで含めるように告げた。途端に静止した藤本は、チ、と舌打ちしてから、「お前性格悪くなったな」と負け惜しみのように言った。「いいえ、私は昔から藤本神父の事を考えていますとも」と、新しい針を打ちながらメフィストが答えれば、藤本は指が真っ白になるまで腕を握りしめて、痛みに耐えている。

「…ほら、藤本神父」と、メフィストが浴衣の裾をまくりあげて太股を示せば、「なんでそこなんだよ…!!」と、藤本は本当に嫌そうな声で呻いた。「臑には毛がありますし、あとの部分では掘りづらいからです」とメフィストが簡潔に返すと、藤本は「…うう〜〜…」と簾の子に額を押しつけてから、「嫌…やっぱダメだろ…」と、畳に爪を立てる。今にも剥がれそうな藤本の爪の先をするりと針で撫でたメフィストが、「ほら、藤本君」と言い直せば、びくっ、と藤本の身体が震えて、「今そう呼ぶなよ、反則だろ」と藤本は呟いた。「それはそれは、失礼しました、藤本君」とメフィストが重ねると、藤本はうわああああ、と畳を掻きむしってから、「も、本気で噛むからな!血ィ出ても止めねえからな!!」と叫んで、ガブ、と肉の少ないメフィストの太股に齧りつく。遠慮のない犬歯が皮膚に食い込んで、メフィストはにたり、と唇を持ち上げた。「ねえ藤本君、私はこの傷を治さずにいることもできるのですよ」と、下絵を忠実になぞりながらメフィストが笑えば、「…知らねえよ…」と、メフィストの血が付いた歯を光らせて、藤本は不機嫌そうに答える。「まあ、治しますけどねえ」と、玉のような汗の浮かぶ藤本の背を掃ったメフィストは、藤本がメフィストの傷を舐めたがる事を知っていた。

雨はいつの間にか止んでいた。



(藤本38才 / だいぶおっさんになった頃 / 青の祓魔師 / メフィストと藤本 / 111009 )