※藤本と達磨の過去捏造話


此 の 先 も 現 在 も な い だ け な の に


十数年続いた瘴気による病が治まり、達磨の謹慎も解けた月の夜だった。
自室で経典を紐解いていた達磨は、少しばかり開いた明かり取りの窓から人型が擦り抜けてくるところを目撃して、数珠を手に立ち上がる。瘴気を祓う手立ては知らなかったが、呪術を跳ね返す程度の知識は達磨にもあった。寺に式鬼とはいい度胸をしている、と逆に感心しながら達磨が唐紙を開けば、人型はくるくると回転しながら外廊下へと抜けて行く。待て待て、と後を追ってぱっと障子の向こうを覗いた達磨は、月光の下にある筈のない人影を見つけてひゅ、と息を飲む。人型を受け止めて、ライターで火を付けたその人影は、ついでのように咥え煙草にも火を移してふう、と煙を吐く。それから、

「よっ」

ぱくぱく、と口を開いて藤本を指す達磨に、今度は徒歩でやってきたらしい藤本は片手を上げてにやりと笑いかけた。動揺を隠しきれずに、何をしに来た、と至極真っ当な質問を投げかけた達磨に、藤本は軽く首を捻って空を仰ぐと、「何って、月見」と丸々輝く月を示す。「そんなことでここまで?」と、達磨が呆れたような声をあげれば、「硬いこというなよ、仲直りしただろ」と告げる藤本は、さっさとブーツを脱いで縁側に胡坐をかいた。「ほら、酒も持ってきたし」と肩にかけた瓶を掲げた。「つまみは何か用意してくれよ〜」と、もうすっかり居座るつもりの藤本がへらへら笑うので、達磨は抗議しかけた口を閉じて、「…虎子は胎み月やから、たいしたもんは出来んよ」とため息交じりに応じる。「何でもいいさ、飲めりゃ」と藤本が本当に何も期待していないので、少しばかり腹の立った達磨は、寝間着の袖をまくりながらとすとすと台所に向かった。

夕飯の残りだった豚肉と大根の煮物と、野菜室で萎びかけていた茄子とトマトと玉ねぎのサラダ、貰い物の韓国海苔をかけた冷奴、少し考えて小さめの塩むすびとコップを盆に載せて達磨が帰って来ると、藤本は見るからに目を輝かせて、「何だよ、スゲーじゃん」と嬉しそうに塩むすびを取る。「君は腹が減っとるんやな」と、達磨が瓶から酒を注ぎながら言えば、「ん、まあ、仕事帰りだからな」と、達磨が差し出したコップを受け取りながら藤本は頷いた。「君の仕事と言うのは、」と達磨が口ごもると、「悪魔退治」と藤本は特に気負うこともなく言い放つ。そして、「仏教用語ではなんつったっけ、俺もう随分前に出奔したからよく覚えてねえんだよなあ」と、コップを傾けながら藤本が首を捻るので、達磨は軽く目を剥いて、「ちょお待ち、君は寺の人間だったんか」と問いかけた。ん?と達磨に目を向けた藤本は、「実家は寺だったよ」と簡潔に答えて、「でも名前の通り四男だったから、別に生計立てる必要があってさあ、まあ才能があるとかなんだとか言われている間に、エクソシストだよな」と軽い声で笑う。黒コートに十字架を下げる藤本をまじまじと眺めて、「君がなあ」と達磨が呟けば、「なんだよ、一応経はあげられるんだぜ?」と膨れたような顔で藤本は返す。日本の悪魔にはその方が良く効く、と、だから達磨達の行為に何の意味もなかったわけではない、と続けた藤本は、やはり見かけよりずっと良い人間なのだろう、と達磨は思う。

「君みたいな人間がおるなら、聖十字騎士団もそう悪い場所ではないんやろな」と気を良くした達磨がコップ酒を傾ければ、藤本は一瞬真顔になると、すぐ吹き出して、「いやあ、外面ばっかり取り繕いたがるタヌキジジイ共の巣窟だぜ?いいことなんてねーよ」と、ひらひら手を振った。「そんな言い方、君の身内もおるんやろ」と達磨が小さく嗜めると、「俺は神父だから、ほんとの意味での身内はいねえな」と藤本は否定する。達磨が黙って藤本の顔を見つめれば、「何だよ?」と煮物を抓んだ藤本が問いかけるので、「いや、君がそういうことを気にするようには見えんから」と達磨は真顔で返した。「くっそ、皆そう言うんだよなあ」と悔しそうに箸を咥えた藤本は、「まあほんとのじゃねえけど、身内になれば良いと思う奴はいるよ」とそこは早口で告げる。ほう、と頷いた達磨は、「じゃあその人と飲めばええやろ、ここで私とではなく」と身も蓋もないことを言ったのだが、「いいんだよ、お前にも会っときたかったし、ついでだし」と面倒くさそうに藤本は答えた。「他に友達はおらんのか?」と、逆に心配になってきた達磨が続ければ、ん〜〜?と藤本は韓国海苔を噛みながら指折り数えて、「友達はあんまりいねえな」と可哀そうなことを言う。けれども、「親友と教え子と弟子はいるんだけどな」と答えた藤本の顔がいかにも幸せそうだったので、「そうか、なら良かった」と、達磨はなんとなく胸を撫で下ろした。ひとりきりでこの山に乗りこんできたこの男が、聖十字騎士団の中ですらひとりだとは思いたくなかったのだ。よかったよかった、と、ひとりで喜んでいる達磨を見て、「何でお前が笑うんだよ?」と不思議そうに藤本は呟いたのだが、「悪い意味や無いから、赦してくれ」と達磨が首を振るので、まあいいか、と乱切りの茄子を一切れ抓んで、清酒と一緒に飲み込んだ。

「それで」と不意に藤本が切り出すので、「なんや?」と達磨が問い返すと、「こどもは無事だったか?」と、今思い出した、と言うように藤本は言った。「あ、…ああそうか、君は、聞いとったんやったな」と、虎子と抱き合って藤本に礼を言った時のことを思い出した達磨は、少しばかり赤くなって頬を掻くと、「おかげさまで、母子ともに健康や、ありがとうな」と、改めて藤本に頭を下げる。「いいって、俺も見返り貰ったし」と何でもないように言った藤本は、「いやあ、でもホントに良かったなあ?明陀宗第十七代次期座主の勝呂達磨くん」と、名乗ってもいない達磨の名を呼んだ。ぽかん、と達磨が口を開くと、っしゃあ!と藤本は拳を握りしめて、「いやあ、あん時倒れて素性知られたのがちょっと悔しかったから?俺も調べてきたんだよ」と、悪戯が成功したこどものような顔で藤本は笑う。びっくりしたか?聖十字騎士団の諜報能力なめんなよ?とドヤ顔で言い募る藤本に、「いや、…君が寺に来た時から、私たちの名前は知っとるもんやと思ってたんやけど」と言いづらそうに達磨が切り出すと、「えっ、」と藤本は言葉を切って達磨の目を見て、もう一度「…ええ〜?」とがっかりしたような声を上げた。「なんだよそれ、知らねえよ、降魔剣の場所しか知らされずに追いだされたんだよ」と、ふてくされたように言った藤本は、箸とコップを投げ出してごろりと縁側に横になると、達磨に背を向けてくるりと丸まってしまう。「えーと、ご、ごめんな?驚いたら良かったんにな?」と達磨は精いっぱい取り成そうとしたのだが、「いーよもう、俺がバカだったよ、悪かったよ」と藤本はますます縮こまって行く。えー、と途方に暮れかけた達磨は、しかし僅かに覗いた藤本の耳が真っ赤なのを見て、これは怒っているのではなくて照れているのだと気付いて、軽く吹き出してしまった。「わ、笑うなよ!!」と叫ぶように言う藤本の声が裏返っているので、「ああ、ごめんなあ、獅郎くん」と指の腹で眦を拭いながら達磨は謝る。「…誠意が感じられない」と藤本が言うので、「悪かったて、ほら、私のおむすびも食べてええから」と達磨が皿を押しやってやれば、藤本はようやくこそりと達磨の様子を伺って、それからさらに手を伸ばして、「お前善人だけど性格悪い」と言いながらおむすびを頬張った。その言葉は、いかにも達磨の腑に落ちて、「ああ、それはええ表現やなあ」と、逆に感心した。

おにぎりを飲み込んで起き上がった藤本が、さも重要そうな顔で「こどもはお前じゃなくて奥さんに似るといいな」と言い放つので、「私もそう思う」と笑いながら達磨は頷く。チッ、と喉の奥で嫌そうな音を立てた藤本は、「やっぱり、お前面白くねえ」と瓶から酒を継ぎ足して、「ほら」と達磨にも向けるので、「これはどうも」と達磨もカップで受けた。うまい酒なので、「やっぱり、私より君の大事な人と飲めば良いのに」と達磨は本心から言ったのだが、「肺を焼くようなものを飲ませられねえだろ」と、藤本はわけのわからないことを言う。「飲めない人なんかな?」と達磨が穏便な答えを探すと、藤本は少しばかり考えてから「これは良い酒過ぎて、聖水に近くなってるから、あいつには飲ませねえの」と、やはり良く分からない言葉を続けた。「エクソシストの事はわからんが、聖水と言うのは害があるもんなんか」と、達磨がガラスのコップを月明かりに翳せば、藤本は首を振って、「俺やお前や、この寺の人間に害はねえよ」とコップを半分ほど空にする。「いろんな人がいるということやな」と、達磨がしみじみ呟くと、「…そうだな」と藤本は薄く笑った。

しばらく黙って酒を酌み交わして、半分方瓶が空になったところで、達磨が「それで君は−」と言いかければ、藤本は何でもないような声で「殺してねえよ。つーかまだ生まれてもいねェ」と、的確な答えを返す。そうか、と頷いた達磨が、「君たちは、どうしてこどもを殺すなどと言う話になったんや」と問いかけると、「お前らのおためごかしよりはもうちょっと実のある理由だよ」と、嫌な顔で笑った。アレは、と、無機物を指すように示した藤本が、「恐らく確実に世界に害を成すものだ」と断言するので、達磨はしばらく我慢したのだが、けれどもうまくいかずに噴き出してしまう。「何がおかしい」と、こればかりは真剣に藤本が尋ねると、達磨はまだ笑いながら、いや、と前置いて、「味方ではない私たちを掬ってくれた君が、世界平和なんかに興味があるとは思えなくてねえ」と達磨は答えた。「なんだよそりゃ」と、毒気を抜かれたような声で藤本が言うので、「だからね、目の前の人間を放っておけんような人間が、世界のために目の前のこどもを殺せるとは思えんと言うとるんや」と達磨は噛み砕いて告げる。「…俺はお前らを助けに来たわけじゃなかった」と、細い声で言う藤本に、うん、と頷いた達磨は、「でも助けてくれたんや、君は」と事実を付き付けた。たった二度の逢瀬で達磨が知った藤本獅郎と言う人間は、つまりそれが全てだった。

目を眇めて、コップ酒に浮かぶ満月を見下ろしていた藤本は、やがて「別に、」と口を開く。「別に、こどもが殺せねえわけじゃねえんだ、俺は」と、自分に言い聞かせるように言った藤本は、くい、とコップを空にしてしまってから、「ただ、ガキのひとりや二人に振り回されて壊れちまうような世界なら、滅んじまっても仕方ねえと思うけどな」と続けて、不遜な笑みを浮かべた。うん、と大きく頷いた達磨は、「私もそう思うわ」と、笑顔で藤本に応じると、「もっと食べ?」と藤本の前に盆を押しやる。素直に箸を付けた藤本が、「料理うまいな、お前の嫁さん」と感想を述べるので、「虎子は産み月やから、実家に帰っとるんや」と達磨が面白そうに答えれば、「えっ?!これ?作ったのお前?!!」と、トマトを吹きだしそうな勢いで藤本は達磨を振り仰ぐ。「大したもんでもないけどな」と、達磨が首を掻きながら肯定すると、「うわー、…美人の嫁さんもらって料理上手でこどもまで産まれて羨ましいと思ってたけど、お前もそれなりにハイスペックなんじゃねえか腹立つ」と、藤本はざくざくと大根を突き刺した。「や、君だって、上一級祓魔師と言うのは最高位なんやろ?自慢してえと思うよ」と達磨は言ったのだが、「その余裕!!お前、もう足の小指の爪でも剥がせばいいのに」と、呪いの言葉を吐く藤本は酔っているのかもしれない。「そうやなあ、…君のこどもと、私のこどもが一緒に学べるような時代になったらええな」と、達磨が宥めるように言うと、藤本が「俺はこども作れねえし」と拗ねたような声を出すので、「うん、だからそういう習慣がない時代になればええなって」と達磨は続けた。遠くを見るような目になった藤本が、「たとえそうなっても、俺にこどもは産まれねえなあ」と断言するので、達磨は少しばかり首を捻ったのだが、それなりにデリケートな問題だったので言及は避けておいた。

それから、ちびちびとコップ酒を舐めている達磨に、「なあ」と藤本が声をかけるので、「うん」と達磨が応じると、「例えば、お前のこどもが世界に仇成すような生き物だったらどうする」と藤本は言う。うーん、と目を閉じた達磨は、けれどもそう長く考えることもなく、「普通に育てるよ」と答えた。「普通に?」と藤本が呟くので、達磨はひとつ頷いて、「私の子やからな、責任もって育てて−それで本当にどうしようもならなかったら、」とそこで言葉を切ると、大きく息を吐く。それから、「一緒に戦おうと思う」と、いっそ晴れ晴れとした笑顔で達磨は言った。「それは世界と」と藤本が尋ねるようでもなく声をかけると、「そうやな」と達磨は笑顔で肯定する。もちろんこんなことを明陀宗の面々に言うわけにはいかなかったが、しかし、達磨の本心はそこにあった。産まれる命は、きっと何よりも愛しいものになるだろうと言う確信がある。僅かばかり口を開き掛けた藤本は、けれどもそれを飲み込んで、

「なんだ、お前結構かっこいいじゃねーか」

と言って大きく笑うと、また縁側に寝転がった。「それはありがとう」と、達磨も笑い返したのだが、それきり藤本の返事がないので、ん?と首を傾げて藤本の顔を覗きこめば、藤本はすっかり目を閉じて寝息を立てている。ええ?!と目を剥いた達磨は、「おい、藤本くん?起きなさい、おーい、」と藤本の身体を揺すったのだが、藤本はがくがく揺れるばかりで、ちらりとも目を開く気配がなかった。はー、と大きく溜息をついた達磨は、結局いつかと同じように藤本を引きずって客間に寝かせる羽目になっている。あまり体力に自信の無い達磨は、どうにか藤本を布団に押し込んで、こどものような寝顔に向かって「おやすみ、藤本くん」と声をかけた。ごろ、と寝返りを打った藤本から、とりあえず眼鏡と十字架だけは外して、枕元に置いておいた。

あーあ、と、あしたの筋肉痛を思いながら客間の襖を閉めた達磨が空を見上げれば、傾きかけた月はただ静かに丸く、大きく、誰もを見下ろしている。あの月が欠けて、また満ちるころに、達磨は父親になるのだ。そう思うと、達磨は自然とこぼれる笑みを隠しきれない。ふう、と息を吐いた達磨は、藤本が殺そうとしたこどものことを思って、少しだけ頭を下げる。そのこどもがいたから、虎子は、明陀宗はすくわれたのだ。達磨にとって救世主のようなこどもが、世界の犠牲になどならなければ良いと、達磨は心から願った。

いつまでも月の美しい晩だった。



( 藤本34歳 / 飲み友達だったりしたらいいのに  / 青の祓魔師 /藤本と達磨/110929 )