※メフィストと藤本とアマイモンの過去捏造話


そ の ハ ツ カ ネ ズ ミ は 笑 わ な い


ある日、藤本がいつものように反省文と祓魔塾の課題を持って理事長室にやってくると、珍しく部屋の扉が開け放たれていた。理事長室の中は空調が効いているので、正直もったいないな、と藤本は思いつつ一応扉をノックしたのだが、中には誰もいないようである。ぐるりと理事長室を見回して、普段は塵一つ無い床に書類が散らばっている様を眺めて首を捻った藤本は、とりあえず中に入って、理事長用の重厚な机に紙を置くと、手近にあるインク壷を重石代わりに乗せておいた。コレも一緒に乗せておけば良いだろうか、と、クリップで留めた反省文と課題でひらひら顔を仰いだ藤本は、不意に聞こえた微かな音に動きを止めて耳を欹てる。カリカリカリ、と何かを削るような音は、理事長室に併設されるファウストの部屋から聞こえていた。少し考えてから、うん、と頷いた藤本は、とんとん、と扉をノックして、「せんせー、ファウスト先生ー?いるんですか?」と声をかける。カリ…、と音が途絶えて、しばらく静寂に包まれた藤本は、また少し考えてからドアノブを回して扉を開いた。そっと覗き込んだファウストの部屋の中は、理事長室など目ではないほどの惨状となっていて、「えっ?」と藤本はこらえ切れずに声を上げた。大型のTVの前にゲーム機が3台繋がれているのはまあ良いとして、その前に菓子類が山のように積み上げられ、大きなカウチソファーからは綿が飛び出し、カーテンが引きちぎれ、ベッドには悪魔の体液らしきものが零れている。え〜〜?と思った藤本は、一瞬見なかったことにしようと思ったのだが、視界の端を横切るものが見えたので、咄嗟に後ろ手で扉を閉めると、持ち前の反射神経でちょろちょろと動くそれを掴み取った。ふにゃ、と言うような感触に、藤本がそっと握る手を緩めると、じたばたともがくそれは、

「何これ、ネズミ?」

小さな緑色のネズミだった。ネズミ?何でこんなところに?ってかこの色は何?と、混乱しかける藤本の手の中で、ネズミは何かとても怒っているようなのだが、可愛いからいいか、と藤本は目を細める。藤本は基本的に動物が好きだった。特に、毛物が。というわけで、「なんだよ、そんなに怒るなよ、さっきカリカリしてたのお前?何か食ってたの?」と藤本が問いかければ、ネズミはまるで藤本の言葉が分かるかのように口を開いて、頬袋に貯めたピーナツを見せてくれる。へえ、と藤本がもう一方の手を差し出してネズミの頬を突こうとすると、途端にネズミはぎらりと目を光らせて藤本の人差し指にかぷりと噛み付いた。「った、」と声を漏らした藤本は、一瞬顔を顰めたのだが、ネズミがどことなく嬉しそうな顔をするので、「かかったな」と藤本もにやりと笑って、噛まれていない指でネズミの頭を撫でる。ぢゅっ、と短く啼いたネズミは、藤本の人差し指を離して中指に噛み付こうとして、でも藤本が笑いながらネズミの頭をぐしゃぐしゃと撫で回すので、狙いが定まらずにキーキー喚いていた。はははは、とやがて満足した藤本が、もつれたネズミの毛を梳きながら、「お前可愛いなあ、うちの子になんねえ?ピーナッツやるよ?」と問いかけたところで、後ろから伸びてきた白い手が藤本の手からネズミをさらって行く。

あ、と振り返った藤本は、なんだか疲れたような顔のファウストが藤本を見下ろしているので、やばいかも、と背筋を正した。あの、と口を開きかけた藤本に、「君はここで何をしているんです」と、ネズミの背を撫でながらファウストは言う。「えーと…提出物を持ってきて、なんか音がしたので先生がいるのかなって…でもネズミがいて」と、しどろもどろに藤本が説明すると、ファウストはネズミを眺めて、「ネズミではなくハムスターですが、まあ良いでしょう」とため息を付いた。見れば、ネズミは藤本の手で暴れていたときとは別物のようにおとなしく、ぺたりとファウストの掌に座り込んで顔を洗っている。「…先生それ、可愛いですね」と藤本がうずうずしながらネズミに視線を向けると、「そんなに良いものではありません、気性も荒いですし、そもそも君が思っているようなただの動物ではないのですよ」と、ファウストは言って、「もう帰りなさい」とネズミに命じた。ネズミは、最後にファウストの顔を見上げて「ちゅう」と啼くと、軽い音と花びらを残して姿を消す。「ああ、ファウスト先生の使い魔だったんですか」とさまざまなことに理由をつけて藤本が頷けば、「あんな使い魔は要りません」と、ファウストは珍しく眉を顰めた。軽く首をかしげて、「先生悪魔嫌いじゃないですよね?ネズミ嫌いなんですか?」と藤本が尋ねると、「そんなようなものです」とファウストは歯切れ悪く答える。それから、ファウストは藤本の右手に視線を落として、「血が出ていますね」と薄く目を細めると、ぱちんと指を鳴らして聖水の瓶と絆創膏を差し出した。「あ、ありがとうございます」と返した藤本は、素直に聖水で指を消毒してから、牙の形に穴の開いた人差し指に絆創膏を巻いて、「先生のじゃねえなら、俺が欲しいなああいつ」と独り言のように呟く。ふ、と笑ったファウストは、「たとえ君でも、あれを召還するには血液が幾らあっても足りないでしょう」と断言した。「…そんなにすごい悪魔なんですか?」と問いかけた藤本の言葉には答えずに、ファウストはもう一度指を鳴らして部屋を片付けてしまうと、「君の反省文はあちらで読ませていただきましょう」と理事長室を指す。はい、と頷いた藤本も、それ以上は何も聞かなかった。

結局藤本がネズミの正体を知ったのは、それから数年後のことだった。
特に何の用もなく、鍵を使って理事長室の扉を開けた藤本は、つまらなそうな振りをして書類に目を落とすメフィストの頭の上でいつかのネズミが寝息を立てている様を見て、それはもう目を輝かせてメフィストに近づく。ああ、と目を上げたメフィストが止める間もなく、ネズミを持ち上げた藤本は、その瞬間全身の毛を逆立てたネズミに噛み付かれて「って、」と声を上げたのだが、噛み付くのと同時にネズミは藤本の指を吐き出してメフィストの肩に飛び移った。「な、何だよ?ちょっとくらい撫でさせろよ、噛んで良いから」と聞き様によってはあまり宜しくないことを呟きながら、藤本がネズミににじりよれば、「藤本神父、あなたは先ほどまで結界に触っていましたね」と、メフィストが鋭く言い放つ。「はい、銀と聖水で学園の補強を」と藤本が頷けば、「悪魔には毒です、そんなことも分からないのですか」と、メフィストはどこかネズミを庇うように言って、藤本を遠ざけるように立ち上った。えー、と首を捻った藤本は、「でも、俺が召還するために全身の血を絞り出す程の対価が必要な悪魔に、そんなものが効くんですか」とメフィストに問いかける。「…君は相変わらず何でも覚えていますね」とため息交じりに漏らしたメフィストは、ネズミの背をぽんぽん、と叩いて、「いいぞ、戻れ」と囁くように言った。戻れ。また消えてしまうのだろうか、と思った藤本の前で、いつかよりずっと大きな音と、さらに花弁だけではなく大量の花の洪水の中から現れたのは、まだ年若いように見える人型の悪魔である。メフィスト以外の上級悪魔を見るのは久しぶりだった藤本は、ああ、と言った声を上げてから、「ネズミのほうが可愛いのに」とろくでもないことを口にした。無表情な悪魔は、藤本をじっと見つめてから、「兄上、殺していいですか?」とメフィストに問いかける。「ダメだ。…それに、お前でもアレはそう簡単に壊せないだろうよ、アマイモン」と返したメフィストの答えに、「アマイモン?地の王?あんなに可愛くて?!」と藤本が空気の読めない声を上げるので、メフィストはぐっ、と拳を握ったアマイモンの腕を掴んで、「話がややこしくなるので君は少し黙っていていただけますか」と藤本に告げる。それから、「アレに悪気はないんだ、私のことも可愛いと言うくらいだからな」と、メフィストは噛んで含めるようにアマイモンに言い聞かせて、思い出したようにどこかから大きなキャンディーを取り出すと、アマイモンに咥えさせた。

「だからアレは殺すなよ、分かったかアマイモン」とメフィストが言うと、「ハイ」とアマイモンは存外素直に頷く。よし、とアマイモンの肩を叩いたメフィストは、藤本を振り返ると、「そういうわけですから、君がこれを使い魔にするのは無理ですし、無理やり撫でることもしないほうが良いでしょう」と藤本に言った。藤本はと言えば、敬語ではないメフィストが珍しくて、どこか気の抜けたような顔で「え、あ、はい」とぼんやりとした答えを返す。軽く頷いたメフィストの横で、むぐむぐとキャンディーを舐めながら藤本を眺めていたアマイモンは、「ただの人間ではないですか、兄上」と言った。「だから良いんだ」と当たり前のように答えるメフィストをよそに、がりがりとキャンディーを噛んで飲み込んだアマイモンは、すたすたと藤本に近づいて、「人間なんてどこにでもいるのに、どうして兄上はいつまでもここに留まっているんです?」と表情のない目でメフィストに問いかける。「アマイモン」と制しかけたメフィストには構わず、藤本の顔を下から覗きこんだアマイモンは、手を伸ばして藤本の目の縁に爪を立てると、「君がいるから帰ってこないんですか?やっぱり君を殺せば物質界に興味がなくなるのかな?」と少しずつ力を込めながら呟く。ぐ、と眉間に皺を寄せたメフィストの前で、藤本はアマイモンの手を取って、「それは俺も同感なんだよな」と何の確執もなく言い放った。ほんの僅かに首を傾げたアマイモンに、「俺がいるからここにいるってことはねえよ、だって俺はここにいない時もあったしな。でも、それにしたってどうして先生みたいな上級悪魔が、祓魔師なんかの下にいるのかは俺も聞きたい」と藤本は続ける。なあ?と藤本がアマイモンの手を揺すると、「ハイ」と藤本の手の甲に爪の痕を残しながらアマイモンも頷いた。そうして、「先生、なんでここにいるんですか?」と、アマイモン越しに藤本が尋ねるので、メフィストは目元を押さえて深く溜息を吐く。それから、

「話がまとまったかと思えば、そこに落ち着くのですね」

と、ひどく静かな声を出したメフィストは、「君は私と戦いたいのですか?」と射抜くような目で藤本を見つめた。藤本がぶんぶん首を振って、「死んでも勝てそうに無いんで嫌です」と答えるので、メフィストは軽く顎を上げて、「アマイモン、お前は」と続ければ、「僕も嫌です」と藤本の手から爪を抜きながらアマイモンも返す。よろしい、と頷いたメフィストは、「では仲良くなさい。特にお前はこの部屋から出られないのだから」と、客用のソファを指した。おとなしくふたり掛けのソファに隣り合わせて座りこんだ藤本とアマイモンは、おとなしくメフィストがお茶の用意をするところを見守っていた。アマイモンが手を離さないので、えーと、と頬を掻いた藤本は「…チョコ食う?」とポケットに入れていた板チョコをアマイモンに渡した。「食べるものですか」とチョコを受け取ったアマイモンは、赤いパッケージを日に透かして眺めると、そのままぽいと口に放り込んでばりばりと噛み締めている。おお、悪魔すげえ、とどこか感心しながら藤本がアマイモンを見ていると、ふたりの前にティーカップと茶菓を並べたメフィストは「はい、餌付けをしないでください。お前も、紙は剥がして食べるんだ」と疲れたような顔で言った。「オイシイです、兄上」とアマイモンが報告すれば、「ああ、良かったな」とメフィストはなおざりにアマイモンの頭に手を置く。立ったまま自分のカップに口を付けたメフィストは、藤本に視線を移すと、「それで君は、その手をどうしようと言うんです」と呆れたように言った。アマイモンが爪を立てた藤本の手の甲からはだらだらと血が流れていて、しかし藤本はさして気にする様子でもなく、「俺痛いのはわりと平気なんで、あとで治療します」と平然と言ってのける。
すう、と目を細めたメフィストは、「ときどき、君は本当に人間なのかと思う時があります」と呟くと、「アマイモン」といっそ優しいような声でアマイモンに命じた。「ハイ」とメフィストに藤本の手を手渡したアマイモンは、ソファを立って床に腰を下ろす。指を弾いて、小さな薬箱を取り出したメフィストは、何の遠慮もなく消毒液を藤本の手の甲にぶちまけた。「いいっッてええええ!!」と藤本が喚いたのは予想外で、「…痛いのは平気なのでしょう」と、メフィストが脱脂綿で血と消毒液を拭いながら尋ねれば、「滲みるのは嫌です…」と涙目で藤本が訴えるので、メフィストはますますわけがわからなくなって少しばかり笑ってしまう。「兄上、何がおかしいのですか」とアマイモンが皿ごとパイを頬張りながら問いかけるので、「人間がおかしいんだ」と簡潔にメフィストは答えた。

丁寧に傷口をガーゼで覆って、いっそ大げさなほどの包帯を巻いたところで、「はい、できました」とメフィストが藤本の腕を擦ると、「ありがとうございます」と藤本はメフィストの手をぎゅっと一度握って、離す。メフィストは何度か手を握って開くと、「君は何か怒っていますね」と藤本に言った。それは問いかけでも弁解でもなくただの事実を告げるだけの言葉で、だから藤本も、特に何を取り繕うわけでもなく「まあ、ちょっとした嫉妬みたいなものを」と答える。はあ、と溜息を吐いたメフィストが、「あのハムスターはコレなので、私としてはアレを抱いていても特に楽しいわけでもないのですよ」と、毛物が好きな藤本に淡々と言えば、藤本は僅かに首を振って、「いえ、そっちではないです」と言った。ではどちらに、とメフィストが尋ねる前に、藤本はずずっと紅茶を飲んでしまうと、「じゃ、俺今日はもう行きます。またな、アマイモン、次は撫でさせてください」とアマイモンに声をかけたのだが、「嫌です」とにべもなく断られて、ははっ、と軽く笑う。それから、「失礼しました」と一礼してさっさと藤本が行ってしまうので、メフィストはまた紅茶を一口啜って、「…お前、二度と藤本の前でハムスターになるなよ」とアマイモンに言った。

「僕も嫌です」とティーカップを齧ってみたアマイモンは、残った取っ手をテーブルに置くと、床に座り込んだまま「兄上」とメフィストを見上げる。「何だ」と視線を合わせることもなくメフィストが返せば、「あの神父の血から兄上のニオイがしました」とアマイモンは淡々と告げる。「それがどうした」と動じることもなくメフィストが促すと、「祝福したんですか?人間を」とアマイモンがメフィストの真っ白な服の裾を引くので、「悪魔の祝福は人間に捧げるものだろう」と、メフィストはゆるりと笑みを落とした。瞬くこともないアマイモンは、くるりと辺りを見回してから、「父上の耳に入ったら−」と言いかけたのだが、言い終わる前にメフィストのつま先が喉に食い込むので、物理的に声を出すことが出来ない。「お前が黙っていれば良い話だ。他の兄弟たちはお前ほど、私にも父上にも興味が無いからな」と、メフィストがいっそ優しげな声でアマイモンの喉を踏みつければ、アマイモンはメフィストを見上げたまま、ハイ兄上、と口を動かした。「良い子だ」と、メフィストが足を下ろすと、アマイモンは赤くなった喉に触れて、「でも僕も兄上の祝福がホシイです」と言う。「さっきも言っただろう、祝福とは人間に施すものだ。お前には必要ない」とメフィストが斬って捨てると、アマイモンは特に表情を変えずに、しかしがり、と爪を噛む。興味が無さそうにアマイモンを見下ろしたメフィストは、それでも、「ほんの百年だ」と言い放つ。「人間の寿命は短いからな、藤本もただの道楽だよ」といっそ他人事のように言ってのけたメフィストは、それよりも、と目を細める。「何度も言うが、アレは殺すな。でなければ私の祝福がお前を滅ぼすだろうよ」とメフィストが釘を刺せば、「ハイ、兄上」とアマイモンはやはり素直に頷くのだった。良い子だ、と、自分で蹴りあげたアマイモンの首を撫でたメフィストは、「藤本獅郎には悪魔を惹きつける要素があり、藤本獅郎も悪魔に惹かれる傾向があるようだからな」と己の言動を弁解するように呟く。「それは兄上が」と言いかけたアマイモンは、けれども言い終えることなくメフィストの裾から手を離して、「僕も帰ります」と立ちあがった。「…もう良いのか?」と不思議そうに問いかけたメフィストに、「人間を見ている兄上はあまり面白くありません」とアマイモンは返して、「あの神父が死んだらまた来ます」と続けて姿を消した。地の王にふさわしい、春の匂いを残して。

アマイモンが遺した花弁を拾い上げて、「そう簡単に死なせはしないが」と呟いたメフィストは、自身の言葉があまりにも白々しく響いて少しばかり笑った。メフィストは藤本に与えた『祝福』は、すなわち悪魔の攻撃をメフィストの魔力で打ち消すだけのものだ。期限はないが限界がある上に、メフィストが藤本への興味を無くせばその瞬間に効力は消える。メフィストが消滅しても、同じことだった。メフィストにとって、それは藤本の命の半分を握ったようなものだった。  結局500年前とほとんど何も変わっていない己の所業を思い返しながら、それでもメフィストに後悔はない。なぜなら、メフィストは人間にすら成りきることが出来る悪魔だった。

どうしようもなく、悪魔だった。



( 藤本学生時代と23才/ 藤本→アマイモン…?  / 青の祓魔師 /メフィストと藤本とアマイモン/110928 )