※メフィストと藤本の過去捏造話


「 幸 」 住 む と 人 の い ふ 


長い杉並木が続く山道を、メフィストと藤本は連れ立って歩いていた。雨上がりの道は黒々と濡れているが、この山の空気は濡れてはいても湿ってはいない。立ち上るものは瘴気とも聖地の様な清められたものでもない、それは精気だった。山自体が生きて脈を打っている、と藤本は敷きつめられるように落ちた杉の葉を踏み締めながらぼんやりと考える。悪魔祓いでも悪魔退治でもなく、ただの観光として聖十字学園を出たはずなのに、結局霊場に向かっている自分自身を笑いながら、藤本は隣を行くメフィストにちらりと視線を投げた。「疲れましたか?」と何でもないような顔で尋ねるメフィストに、「高校時代の森歩きに比べたらよっぽど楽ですよ」と藤本は返して、それでも額に浮かぶ汗を拭う。「学園は私の庭ですし、基本的に私の世界はあそこだけですからねえ」と、悲壮感もなく返すメフィストの言葉にどきりとしたことは隠して、「先生ももっと出歩けばいいのに」と藤本は軽く言った。「そうですね」と目を細めるメフィストの声はいつだって穏やかで、藤本は時折それに苛立つこともあるのだが、メフィストの方では逆にそれを喜んでいる節がある。嫌がらせが好きだ、と臆面もなく言ったメフィストの言葉が忘れられずにいる藤本は、半ば土に埋まった玉砂利をひとつ、道の両側に流れる小川に蹴飛ばした。鳥居を抜けて、門を潜って、それからもうどれだけ歩いただろう。深夜の山道には当然ながら人気などなく、かといって悪魔が出るわけでもなく、やはりここは神の山なのだった。山自体が神である。これだから日本は面倒くさい、と言ったことを藤本が呟くと、「虚無界にも山はありますから」とメフィストは言う。それはつまり、この霊場が虚無界と物質界にまたがって存在すると言うことなのだろうか。土の山道はいつの間にか石段に代わって、妙に歩幅の大きな段を指して、「天狗は足が長いんでしょうか」と、メフィストが大真面目な顔で言うのがおかしかった。山を、天狗が作ったわけでもないと言うのに。

およそ40分ほどかけて石段を昇り切る手前に、メフィストと藤本が目指す場所があった。こんこんと水が湧きだす大きな御影石に注連縄をかけて、手前に置かれた丸石には水神、と刻まれている。「この水が」と藤本が指すと、「ええ、この山に立ちこめる独特の精気はこの水が原因です」とメフィストは頷いた。藤本が手を伸ばそうとすると、「人間では弾かれてしまいますよ」と、メフィストはやんわり藤本の手を握りこむ。「悪魔だと痛いんじゃないですか?」とからかうような口調で藤本がメフィストを振り返れば、「痛いだけですから」と澄ました声でメフィストは言った。その言葉通り、静謐な流れに浸したメフィストの指先はどんどん赤くなっていくものの、メフィストは瞬き一つせずに意思を見つめている。「さあどうぞ」とメフィストに促されるまま、藤本は真言を唱えた。メフィストの掌を支柱にして、水に宿る意思を読み取る。藤本とメフィストが何をしに来たかと言えば、山全体に聖水が流れる仕組みを追いに来たのだった。「いかがです?」と、藤本の言葉がぷつりと途絶えたところでメフィストが尋ねるので、「うん、まあ、山が凄いみたいです」と藤本は簡潔に答える。あまりと言えばあまりな言葉にも、「そうでしょうね」とメフィストはあっさり頷いて、流れから手を引き抜くと、無造作にコートの端で水滴を拭った。一瞬の間にぽつぽつと血が滲んだメフィストの掌は、聖水の濃度がよほど濃いことを示している。藤本にも治癒術の心得はあるが、それはどれも人間を癒すもので、悪魔を直すための術は持ち合わせていない。「メフィストフェレス先生」と藤本が声をかければ、メフィストはまた何でもないような顔で振り返って、「カミサマに挨拶をしていかなければ」と妙な発音で言った。神、GOD、創造主、主よ、そのどれもがメフィストにとって毒の様な価値を持つことを藤本は知っている。それがなぜそうなのかを説明することはできないのだが、人間が瘴気に耐えられないのと同じ意味があるのだとメフィストは言っていた。けれどもメフィストは聖水に触れても弱ることはないし、十字架を首にかけても堪える様子はない。上級悪魔が特別なのか、人の形を取って現れることができるメフィストが特別なのか、悪魔の天敵とも言える藤本にはあまり区別がつかなかった。

ふと思い立って、「先生にも致死節はありますか」と藤本が尋ねると、水神以外の神体が祀られた社までの石段に足を掛けていたメフィストは、「多分あるでしょうね」と無造作に答える。多分?と藤本が不可解な顔をすると、「それがわかった時に私は死んでいるでしょうから、残念ですが君には教えてあげられません」とメフィストは補填した。ということは、メフィストはこの世に一つしかない悪魔なのだ。同じ致死節を持つ悪魔は存在せず、おそらくとてつもなく長いだろうそれを唱え切るまで、メフィストの攻撃を防ぎきる人間が存在するとも思えない。聖書を読めるメフィストに、今さらどんな言葉が通じるのだろう。それが本当のことでも嘘でも、藤本はとてつもなくほっとしたので、水に濡れたカソックの裾を翻してメフィストに追いつくと、「もしいつか分かっても、誰にも教えなくていいです」と告げる。2段先から藤本を見降ろして、「君にもですか?」とメフィストがひどく真面目な声で問いかけるので、「俺にもです」と藤本はきっぱり答えた。それは、実力でメフィストを祓うことのできない藤本がメフィストに見せる誠意である。たとえメフィストが世界を滅ぼすとしても、藤本にメフィストを殺す気はなかった。「なるほど」と何がわかったのかは分からないが何事か頷いたメフィストは、さっさと石段を登り切って、浄財箱に5円玉を投げて手を合わせている。5円玉のない藤本が10円を放って2拝2拍1拝を終えても、まだメフィストが目を閉じているので、「何をお願いしてるんですか」と藤本はメフィストの背中に声をかける。1拍置いて目を開けたメフィストは、水神の岩から伸びる小さな滝に視線を送りながら、「秘密です」と言った。「えー?」と藤本は横からメフィストの顔を覗き込んだのだが、メフィストが思ったよりも真剣な表情をしていたのでそれ以上は問わずに、背伸びをして落ち込んできそうなほど近くに見える星に手を伸ばす。届くと思ったわけでもないが、届けばいいと思って。社が置かれた3m四方の空間の片隅に置かれたベンチへ腰を下ろしたメフィストが、「星が近いですね」と藤本の考えていることと同じようなことを口にするので、「うん、きれいですね」と藤本は嬉しそうに言った。結局のところ、藤本にとってメフィストとの関係はその程度で良いのである。同じものになれなくても、同じことができなくても、隣に並んで同じものを見ることができる、それで十分だった。ふへ、とにやけた顔のまま満天の星空を眺める藤本に、「さて、山を降りたら朝風呂でも浴びて帰りましょうか」とメフィストが声をかけるので、「良いですね、そうしましょう」と藤本は顔を輝かせてメフィストに向き直る。ふ、と口元を緩めたメフィストの掌からは、もうすっかり血の痕が消えていた。



( 藤本25歳くらい / これただの日記なんじゃねーかな  / 青の祓魔師 /メフィストと藤本/110828 )