※メフィストと藤本の過去捏造話


そ う や っ て 塞 い だ 両 の 手 で


低い曇り空から一筋の光が差し込む明け方だった。メフィストがいつものように鼻歌交じりで学園内をうろついていると、北門の前に黒い人影が見える。悪魔であるメフィストにとってたった数百メートルの距離は目の前と変わらないのだが、それでも人間のふりをして生きることに薄暗い喜びを感じるメフィストはわずかに目を細めた。人影は学園の教師らしく、カソックを軽く羽織っている。さて誰かと言えば、もうすでに見るまでもなく藤本特有の静謐な空気に包まれているので、メフィストはわざとらしく咳ばらいをしながら北門までの道のりを軽やかに進んだ。

「おはようございます、藤本神父」

と、メフィストが優雅にマントを持ち上げると、藤本はわずかに顔を上げて「おはようございます、先生」とメフィストに笑いかける。藤本の顔が少しばかり曇っているので、どうかしましたか、と問いかけようとしたメフィストは、そこでようやく藤本がひとりきりではないことに気付いた。ブーツを脱いで胡坐をかく藤本の膝には、縞の猫が一匹、悠々と陣取って軽い寝息を立てている。わふ、と欠伸をかみ殺す藤本を無表情に見降ろしたメフィストは、藤本が悪魔薬学の実習で昨晩遅くまで森に入っていたことを知っていた。と・言うよりも、メフィストは実習の後いつまで経っても帰ってこない藤本を迎えに来たのだった。「いつからここにいたんです?」とメフィストが問いかければ、「2時くらいか?こいつが泣くから、何かと思えば膝に乗って離れねえんだよ」と藤本は答える。そろそろ起きてくんねえかなお前、と呟く口調とは裏腹に、藤本が縞猫の頭を撫でる手付きはいかにも優しかった。朝露に濡れた藤本のカソックを認めて、ふうん、と首を捻ったメフィストは、「抱き上げて帰ってくれば良かったのでは」と率直な意見を述べる。「そうはいっても、教師自らが学園の規範を破るのは、な」と藤本が言うのは、校内・寮内共にペットの持ち込みが禁じられているからだった。たとえ使い魔の類であっても、基本的に常時呼び出したままでいることは許されていない。けれども、メフィストは正論を吐く藤本がどうにも腑に落ちなくて、「あなたがそんなことを気にするわけがないでしょう」となぜか咎めるような声を出してしまう。藤本は少しばかりまぶしい物を見るような顔でメフィストを見上げると、「そうでもねえよ」と優しい声で言った。まるで子供に言って聞かせるような、温い温度の声だった。メフィストがそれきり何も言わずに立ちつくしていると、やがて我が物顔で藤本の膝を占領していた縞猫が顔の半分を口にして大欠伸を漏らして、2、3度藤本に身体を擦りよせる。藤本が縞猫の背中を親しげに擦れば、縞猫は満足そうに一鳴きして藤本の膝から飛び降りると、それきり振り返らずに北門から路地裏へと走り去って行った。普段の人を食ったような笑みとはまるで異なる、柔らかい表情で縞猫を見送った藤本は、ぐう、と背伸びして立ち上がると、「じゃ、帰って寝るわ」とメフィストの肩を叩いて首に下げた鍵を探っている。教員宿舎までの鍵は、一番小さいものだった。けれども、メフィストは門に鍵を刺そうとした藤本の手をやんわりと押し止めて、もう一本別の鍵をつかみ出すと、有無を言わさずに鍵穴に押し当てる。開いた先は、学園の頂上に近い温室の中だった。

悪魔薬学に欠かせない薬草が群生する温室は、藤本が巣のようにしている場所で、そしてメフィストにとってもわりと心地良い場所だった。何と言っても、下級悪魔が人に害を加えずに生きているところが良い。虚無界ではそれが当たり前の光景なのだ。物怖じせずにメフィストに擦りよる弟の使い魔を無造作に掃って、メフィストは藤本を泉水脇のベンチに座らせる。メフィストの為すがままだった藤本は、そこでようやくメフィストの腕をやんわりと振りほどいて、「どーしたんだよ、メフィストフェレス先生」と尋ねた。その声がまた、ゆるく諦めのような色を孕んでいるので、「君こそ、どうしたと言うんです」とメフィストは藤本に問い返す。メフィストは悪魔なので、刹那的な生き方をする藤本が好きだったし、宿のない猫に一晩の膝を提供するような行為は藤本に相応しいものだったが、それにしても3時間近く冷たい地面に座り続けているなどと、正気の沙汰ではない。藤本にとっても、猫にとっても。メフィストが掴んだ藤本の腕が氷のように冷え切っていることに、藤本自身が気づいているかどうかも怪しい、と思いながらメフィストが藤本を見降ろしていると、やがて藤本は眼鏡を取って眉間を押さえて俯いた。「頭痛がするのですか」とメフィストが藤本の左手に右手を添えると、「いいえ」と返した藤本はかすかに首を横に振る。藤本の声がいかにも倦み疲れているので、メフィストは藤本の上着を藤本の肩から外して、代わりにメフィストのコートを着せかけた。黒衣ばかり好んで着る藤本には、しかし白衣も良く似合うことをメフィストは知っている。見た目よりずっと軽くて暖かいメフィストのコートを右手で押さえた藤本は、「ありがとうございます、先生」と呟くように言って、そのままぐらりとベンチに倒れこみそうになるので、メフィストは危ういところで藤本の頭の下に自身の膝を滑り込ませた。いわゆる膝枕の形である。少しは嫌がるかと思った藤本は、でも「…ちょっと硬いです」と言っただけで、具合の良いところを探る様に何度か首の位置を変えただけで、満足そうに目を閉じた。「君は猫と同類ですか」と、メフィストが藤本の上着を畳みながら低く笑えば、「先生にとっては似たようなものなんじゃないですかね」とくぐもった藤本の声が聞こえて、メフィストは笑い止む。意味などは問うまでもなかった。藤本はおそらく、しばらく前からずっとそのことを考えていたのだろう。その証拠に、もう何年も使っていなかった敬語をメフィスト相手に発している。メフィストは藤本の目元を左手で塞いでから、「どうしてそんなことを思いついたんです」と精々誠実そうな声音を出した。ただし、表情は笑っている。もうほとんど眠りかけるような声音で、「だって俺は先生よりずっと先に死ぬから」と藤本は言った。「だから先生にとって、俺は俺の膝に乗ってくる猫みたいなものでしょう」と続けた藤本の唇が不満そうに引き結ばれているので、メフィストは少しばかり考えてから、「君が猫だったら私は苦労しなかったでしょうね」と告げる。メフィストにとって人間以外のあらゆる生物は眷属であり、そして良き理解者だった。人間から魂を奪う以外の触れ合いを良しとするこの200年余りは、メフィストの長かった、そして長いはずの人生ならぬ悪魔生の中でも特別な物である。さらには、藤本の様に聖騎士にまで登りつめながら、変わらずメフィストとの友情の様なものを貫き続けるような人間が、じゃらす必要もなく懐く猫と同じであるはずもなかった。と言ったことを淡々と述べて、「私の努力を無駄にしないでください」とメフィストは藤本の肩を撫でながら結んだ。

藤本はかなり長い間沈黙して、メフィストが塞いだ掌の下で3回瞬きをしてから、「そういう事を言うと、俺は調子に乗りますよ」といっそ感情を押し殺すように言った。「その方が君らしくて良い」とメフィストが殊更軽い口調で告げれば、藤本はそろそろと左手を伸ばして、藤本の右肩辺りに置かれたメフィストの左手に触れる。メフィストが何の気無しに藤本の手を握ると、藤本は僅かに身体をこわばらせて、「先生は悪魔だから、」と本当に小さな声で呟いた。悪魔だから。信用には値しない、と言いたいのだろうか。そんな本当のことを藤本が今さら言うとも思えなくて、メフィストが次の言葉を待っていると、藤本は狭いベンチの上で寝返りを打ってメフィストの膝に顔を埋めるようにしてから、「…悪魔なのに、俺の魂を欲しがらないので、俺が特別だとは思えませんでした」と締め括る。なるほど、と頷いたメフィストは、藤本が今までに数多くの悪魔から契約を持ちかけられたことを知っていた。それは藤本が聖騎士としての地位を確立する前、聖十字学園を卒業してヴァチカンに渡ってから今までなので、もう15年ほどになる。ということは、メフィストと藤本が出会ってからもう20年近く経っているのか、と改めて意識することもなかったことをメフィストが考えていると、「先生は俺の魂が欲しくないんですか」と藤本は言った。「欲しくないですね」とメフィストが即答すれば、メフィストの手を握り返していた藤本の手から力が抜けて落ちそうになるので、メフィストが強く握り直す。「そうですか」と返した藤本の声は冬枯れの木の様に乾いていて、10年ほど前に藤本が日本支部に帰ってきた時のことを思い起こさせたので、メフィストはごく軽く声を立てて笑った。それから、「人間の魂には、生きている人間程の価値はありませんので」とメフィストは言う。それは本当のことで、確かに藤本の魂はメフィストの質を向上させるかもしれないが、でもそれだけだった。栄養剤の様な魂が、既にかなり高い地位を得ているメフィストにとって、生きて動く薔薇色の頬をした人間程の価値があるわけではない。さらにそれが藤本と言う得難い存在であれば尚更だった。たとえ藤本から望まれたとしても、メフィストは藤本の魂になど興味はないのである。そしてまた、藤本自身がそんなことを望むことはないのだと言うこともメフィストは知っていた。藤本は外見や内面がどうあっても、高潔な聖職者なのだから。また少しばかり時間が経った後で、藤本が目元に置かれたメフィストの掌に触れるので、メフィストは藤本の瞼から手を離した。またメフィストの膝の上で半回転した藤本が、メフィストの顔を真直ぐ見上げるので、「どうかなさいましたか、藤本神父?」とメフィストは芝居がかった口調で問いかける。「メフィストフェレス先生は、生きている俺に価値があると言いましたか」と藤本が尋ね返すので、「要約すればそういうことになりますね」とメフィストは大仰に頷いた。藤本の白い頬に少しずつ血の気が戻っていくのを眺めながら、メフィストはこっそり詰めていた息を吐く。メフィストには藤本の感情の動きが手に取るようにわかるのだが、それが何によって齎されるかは分からないので、メフィストなりに努力しているのだった。

「俺今すげー嬉しい」と言った藤本の目元が緩んでいるので、メフィストも唇の端を上げて「それは素晴らしい」と満足そうに返す。それから、にっ、と音がしそうなほどきれいに笑った藤本が、何の予備動作もなくことんと眠りに落ちるので、メフィストはそっと藤本の左手を離して両手を藤本の顔に当てた。生きた血の匂いがする。魂でもなく、肉体だけでもなく、藤本の全てであればメフィストも欲しかった。けれども悪魔であるメフィストには、どう望んだところで叶う願いではない。矛盾の様だが、メフィストの思いのままに動くような藤本は欲しくないのだった。藤本が悪魔になるのなら、ある意味それは理想だったが、人が悪魔になることは悪魔が人になることよりもいっそ難しい話である。悪魔は本当の意味で虚無界の住人であり、人はどれだけ魔に身を窶そうとも虚無界で生きていくことはできない。いずれ朽ち果てるようなものを、悪魔と呼べるのだろうか。少なくとも、悪魔堕ちでメフィストと同等の存在になれるとは思えなかった。そこまで考えたところで、そもそも藤本がそんなものになるはずがないことに気付いて、メフィストはひっそりと笑う。聖騎士である藤本がどれだけ心を病んだところで、内なる光に守られて消えてしまうのが関の山である。藤本が光に狂わされずに俗世間と繋がっているのは、ある意味メフィストが側にいるからだとも言えた。ただ高潔なだけの人間に何の魅力があるだろう。メフィストは、心を揺らす藤本が好きだった。悪魔の膝を借りて眠り、宿のない猫に膝を貸し、夜間実習で深手を負った実習生の様子を見にも行けないような、そんな藤本が好きだった。むにゃ、と何事か呟きかけた藤本の口元にそっと指を滑らせて、メフィストは呪いの様な言葉を吐く。聖句を口にできないメフィストにとって、それは真の愛を誓うものに他ならない。悪魔にそんなものが抱けるとすればだが、と至極冷静にメフィストは論じるが、おそらくはあるのだろう。少なくとも愛に似た何かが無ければ、メフィストは藤本に応えることもできないのだから。昇りかけていた陽はいつしか温室にも手を伸ばし、メフィストの目を焼こうとしている。両手の塞がったメフィストは、ただ瞼を閉じてその光に耐えた。突き刺すような痛みは、別離の色にも似ていた。 



( 藤本33歳くらい / 30でメフィストへの敬語を止めました / 青の祓魔師 /メフィストと藤本/110828 )