※メフィストと藤本の過去捏造話


心 臓 に も な い 、 脳 に も な い


朝から雲行きが怪しかった空から最初の雨粒が落ちたのは、ちょうどメフィストが最後の一匹を音もなく切り捨てた時だった。返り血-ではなく返り体液を無造作にぬぐった藤本は、ぽつぽつ黒くなり始めた地面を眺めて「メフィストフェレス先生、傘使えますか?」とメフィストに問いかける。メフィストは刃を拭って軽く頷いてから、「でも傘を差してここを下るのは少し辛いでしょうね」と、霊峯と呼ばれる山の、鬱蒼と茂った木々に薄く目を眇めた。

日本でも有数の霊場の歪みから無数の悪魔が生まれている、と報告を受けたのは藤本が2週間ぶりに日本に帰ってきたその夜のことで、途方に暮れたような目で藤本を見つめる中二級祓魔師の視線に耐えきれなくなった藤本が休暇を返上してやってきたのがここである。国家ぐるみで祓魔師を要請する諸国に比べると、日本にはどうしても祓魔師が足りない。そしてその割に"神"と称される悪魔が多いのも特徴で、なんでもかんでも崇めるんじゃねえよ、と藤本が毒吐いたとしても無理はないと思って欲しい。藤本が慌ただしく準備をして、聖十字学園-聖十字騎士団日本支部-から出発しようとした時に、「貴方ひとりでは荷が重いのでは?」と、芝居がかった口調で声をかけたのがメフィストだった。ゆるりと振り返ってメフィストを睥睨した藤本が、「見くびるんじゃねーよ、むしろ俺より弱い奴に着いてこられる方がよっぽど迷惑だ」と切り捨てれば、メフィストはますます笑みを深くして「それでは私を連れて行くと言うのは如何です?」と藤本の胸を指す。えっ?と一瞬素に戻りかけた藤本は、メフィストがにやにやと藤本の動向を伺っているので、ぐっと息をのみ込んで、「悪魔なんかに加勢されるほど落ちぶれるつもりはねえよ」とメフィストの手を掃った。ただし、誰にも気づかれないようにそっと力を抜いて。「おやおや手厳しい」とトップハットに手を置いてわざとらしい溜息を吐いたメフィストは、「しかしこれは命令なのです」と藤本の前に一枚の紙をかざす。ヴァチカンの印が押された仰々しい飾り文字を読み解いていけば、それはつまり藤本に対するメフィストへの3週間の監視命令で、ほぼ24時間体制でのそのスケジュールに、「はああああ?!」と藤本は思わず紙を握りしめて叫んだのだが、「私としても討伐など不本意ではありますが、貴方が行くと言うのなら私も行かざるを得ないのですよ」とメフィストは断定的に告げて、「よろしくお願いしますね」と優雅な仕草で藤本に一礼した。あくまでも雇われている藤本は、上からの命令に従うしかなかった。

現場に向かう最終列車の中で、嬉々として買い込んだ駅弁や冷凍みかんや菓子の包みを広げるメフィストを見るともなしに眺めて、「先生、さっきの指令書、偽物でしょう」と藤本は言う。「偽物ではありませんよ、ちゃんと私が貴方に下した命令です」と、駅弁をひとつ差しだしながらしゃあしゃあとメフィストが答えるので、「いや、だってアレヴァチカンの印…」と藤本は胸にしまった紙を広げた。「私がヴァチカンの印を押してはいけないんですか?」と、冷凍みかんを窓辺に吊るしながらメフィストは言って、「いいでしょう、たまにはこんなことも」と緩く唇を持ち上げる。藤本は、メフィストが上一級以上の祓魔師と一緒でなければ聖十字学園を出られないことを知っていて、また学園には今のところ藤本しか上一級祓魔師がいないことも分かっていたので、「いいですけど」と返して駅弁の蓋を開いた。東京駅で買ったそれは、行き先にも東京にも関係のないイカ飯で、「…うまいですねコレ」と頬を緩めた藤本に、「どうぞ」とお茶を出してから、「ところで、敬語は要りませんよ」と思い出したようメフィストは告げる。「善処します」と言った藤本の言葉に嘘はなかったが、しかし行動が伴うかと言えばそうでもないのだった。


そうして朝までかけて霊場に辿り着いた藤本とメフィストは、その足で山に登った。列車の中でまどろむんだだけだと言うのにひどく機嫌の良いメフィストの後に続く藤本は、こちらもそれなりに気分が良くて、これはつまり3週間どこに行くにもメフィストが一緒だと言うことが嬉しいのだろう、と今さら覆しようもない事実を冷静に受け止める。進むにつれて細くなる獣道とは対照的に、感じる瘴気と霊気はどんどん強くなって行って、「これはなかなか」と満足そうに呟くメフィストに、「やっぱり先生と一緒に来てよかったです」とごく真面目に藤本は言った。今日の藤本の武器は短銃が一揃いとナイフに近い小太刀、それに聖水だけで、銃社会ではない日本にいらだったりそうでもなかったりするのだが、そもそも藤本が得意とするのは詠唱に格闘技を混ぜた修験者のようなスタイルなので、武器がなくてもそれほど不自由はない。それよりもメフィストはどうやって戦うのだろう、と、藤本はほとんど手ぶらのメフィストに目を向けた。さすがにいつもの白スーツは形を潜めて、藤本のものより少しばかり仕立ての良い騎士団のコートを羽織った姿は、藤本の贔屓目を差し引いても凛としている。だからこそ手に持ったピンクの傘が不釣合いだ、などと言った他愛ないことを考えながら歩いていくうちに、不意に辺りが翳った。そもそも曇り空であり、頭上に覆い被さるように木々が茂っていたため明るくはなかったのだが、それにしても唐突に。藤本がメフィストの背中から視線を移せば、獣道からさらに反れた場所にほとんど朽ちかけた石段と石仏が見える。その先の道は淵のように暗く、どう目を凝らしても藤本の視界にはほとんど何も映らない。これは、と藤本がコートの中で小太刀を握り締めたところで、メフィストがゆるりと肩越しに振り返って、「これは良い瘴気ですねえ」とぬるく笑った。

メフィストがあまりに飄々としているので、「先生、戦えますか?」と藤本が小走りでメフィストの隣に並べば、メフィストはいっそ優しいとすら思える表情で、「君と同じくらいには」と微笑んだ。藤本が思わず見蕩れていると、「では、行きましょうか」とメフィストは何のためらいも無く淵のような石段に足を掛けるので、藤本は慌てて「俺が先に行きますから」と告げて、メフィストの前に回りこむ。その瞬間、どろりとした不快感に包まれて、藤本は僅かに息を詰めた。底知れぬ闇のずっと先に目を向ければ、そこかしこにちらちらと燐光が浮かび上がっていた。ちらちらとうごく光はそれ以上近づいてこないが、遠ざかっていくこともなく、ただじっと藤本とメフィストを見つめている。見られている、と何の疑いも無く考えた藤本は、ようやくそれが眼光であることに思い当たって、緩やかに瞬いた。ガラス越しに見つめる眼球は少しずつ数を増していくようだが、藤本に怖れはない。まとわり付く闇を掻き分けるように進む中で、藤本は何度か朽ち果てた卒塔婆と倒れた石塔と墓石に触れて、そのたびに掠めるような念仏を口にしたが、期待するほどの効果はない。そもそも、既に死んでいるただの霊に致死説はないのだった。耳が痛くなるほどの静寂の中で、藤本の声とふたりの湿った足音だけがやけに大きく響く。ふと、灯りを持ってくればよかっただろうか、と今更ながら藤本は思ったのだが、「いえ、それは逆効果でしょうね」とごく普通の声でメフィストが否定するので、藤本が軽く頷いたところで、不意にメフィストが藤本の腕を引いた。狭い上り坂だったこともあり、藤本は大きくバランスを崩してメフィストに抱きとめられたのだが、メフィストは何も言わずにほとんど何も見えない藤本の目元を掌で塞ぐ。なにを、と言おうとした瞬間、目を閉じていてもわかるほどの閃光が藤本とメフィストの周囲を包んだ。「っ、」とたじろいだ藤本の身体を押し退けるように前に出たメフィストは、「詠唱を」と短く告げて、手にしていた傘の柄をするりと引き抜く。まだ残る閃光を受けて煌めいた銀に、仕込み刃、と声は出さずに呟いた藤本は、間髪入れずに襲ってきた人の顔に鳥の翼を持つ悪魔をメフィストが切り裂く姿をただ眺めていた。「―ハルピュア」と悪魔の名を特定して詠唱を始める藤本を背に、メフィストはいかにも楽しそうな口調で「この場所では姑獲鳥と呼ぶ方が良いでしょうね」と、抜き身の刃で山道の両脇に列なる石を差した。ほとんど風化してわからないが、よくよく見れば石には顔が刻まれているようだった。翼あるものの失墜、と続ける藤本にも薄々事情は掴めて、メフィストの脇をすり抜けて飛んできたハルピュアを続けざまに2匹撃ち落とす。詠唱が終わるまで、ただ守られているつもりはなかった。藤本はそもそも、単独行動の多い祓魔師なのだ。ちらりと肩越しに振り返ったメフィストに、藤本が微かに笑いかければ、「健闘を」と言い残して、メフィストはハルピュアの群れに斬り込んで行く。藤本は、また一匹飛んできたハルピュアを小太刀で突き刺しながら、致死説を朗々と詠み上げた。


さて、冒頭に戻って退治後の話である。藤本の詠唱を受けても僅かに生き残ったハルピュアをふたりで薙ぎ払った藤本とメフィストは、ひとまず大きくもないメフィストの傘に納まって辺りを見渡した。「この場所は」と言いかけた藤本に頷いて見せたメフィストは、軽く傘を回して滴を掃うと、「昔、口減らしがありましてね」と告げる。霊峰なのにですか、と尋ねかけた藤本は、「霊峯だからこそです」と答えるメフィストの言葉に黙り込むしかない。祀ったのだろうか。彼らはこの山の神の一部だったのだろうか。人為的に破壊されたらしい墓石の一部に封印を施した藤本は、「…これからどうしましょうか」と、止む気配もない雨に肩を濡らしながらメフィストに問いかける。そうですね、と前置いたメフィストは、「もう少し上ると庵がある筈ですから、そこまで行きましょう」と言って傘を持ちかえると、左手で藤本の背を軽く押すように進む。「なんでそんなこと知ってるんですか」と、ぬかるみ始めた道に足を取られないよう気を配りつつ、僅かにメフィストに近寄った藤本がメフィストの顔を見上げると、「昔住んでいたので」と何でもないような顔でメフィストは答えた。こんなところに?と言う藤本の疑問は雨音に掻き消されてしまった。

やがて辿りついた場所は小川に囲まれた茅葺の家だった。小屋と言うほど小さくもないが、屋敷と言う程の広さはない。小川にかかる石橋を越えて鍵のない引き戸を開けば、「ああ、綺麗にしてくれていますね」とメフィストが呟いた通り、かなり古い建物なのに朽ちた様子はなかった。メフィストが傘を畳んで一振りすると、土間の隅に積まれていた薪が囲炉裏にくべられ、もう一振りで鮮やかな炎が上がる。ずぶ濡れのコートを脱ぎながら、「先生なら、飛んで帰ったりできるんじゃないんですか」と危ぶみながら藤本が尋ねると、「ひとりでなら簡単です」とメフィストも上着を土間の隅に掛けて、ブーツを脱いで板の間に上がった。少しばかり軋んだ床には、それでも囲炉裏から飛ぶ灰しか落ちていない。お邪魔します、と頭を下げてから上がり込んだ藤本が、「ここに住んでたって、いつ頃に」と傷はあるものの磨かれた柱に指を滑らせれば、「ざっと200年くらい前に」と事もなげにメフィストは言う。少し計算した藤本は、囲炉裏の傍に座り込んだメフィストを見下ろして、「もしかしなくても、先生はここに何がいるか知っていましたね」と、ほとんど断定するように言った。「見ていましたから」と、隠すこともなくメフィストは返して、いつの間にか手元に引き寄せていた鉄瓶に、手箱から取り出した茶葉を入れて自在鉤に吊るす。それから、「座ったらいかがです?雨がやむまで、まだしばらくかかるでしょうし」と、メフィストは人を食ったような顔で笑った。藤本はそれが比喩ではなかったときのことを考えて少しばかり首を捻ったのだが、それでも結局メフィストの前に腰を降ろして、「俺が行くからじゃなくて、この場所だから一緒に来たんですね、先生は」と努めて明るい声で言おうとしたのだが、失敗した。だから何だと言うのだ。藤本の前にはメフィストが座っているし、いつのものだかわからない茶葉ではあるが茶も出されたし、これもまたいつのものだかわからない金平糖も紙に乗っている。それで十分だろう、と藤本は思いたかったのだが、しかし一度浮ついた感情は落ちるのも早かった。藤本にとってのメフィストが、メフィストにとっての藤本と同じ場所にいるとはとても思えない。事実、どうしても藤本はメフィストより先に死ぬだろうし、そもそもメフィストに死の概念があるかどうかすら藤本には分からなかった。メフィストが悪魔であると言うことを一番強く感じているのは、いっそ藤本なのかもしれない。悪魔でも人間でも藤本の感情に差はないが、メフィストにとっての藤本がそうであるとは限らないのだ。ふ、と詰めていた息を藤本が吐き出したところで、「そういうわけではありません」と、湯呑を差しだしながらメフィストは言う。反射的に受け取りながら、「何が、」と少し飛んでいた藤本が返せば、「思い入れがあるわけでもありませんから、君がいなければ放っておきましたよ」と、つまりメフィストは先ほどの藤本の言葉に答えたのだった。ぽかんと口を開いて、何秒かメフィストの顔を眺めていた藤本は、やがて「ぅあっつ、」と握りしめていた湯呑の温度に耐えきれなくなって声を上げる。湯呑を床に置いてから、「そういうものですか」と藤本が生真面目に問いかけると、「そういうものです」とメフィストもごく丁寧に首を縦に振った。墓石の数からして、恐らく村が消えるほどの飢饉が起きただろうに、思い入れはない、と言い切るメフィストは紛れもなく悪魔的で、しかしそれを嬉しいと感じた藤本にメフィストを咎める術はない。何より、200年前の話だった。

お茶を飲んでしまった藤本が、ちらちらと揺れる火に目を向けながら小さく欠伸を噛み殺すと、「眠いですか」とメフィストが声をかけるので、「少し」と藤本は素直に答える。藤本は、ヴァチカン発メフィスト経由で与えられた2週間にわたる任務の後、ようやく休暇に、と思ったところでほとんど休む暇もなくここにやってきたのだ。先ほどまではかなり肌寒かったのだが、濡れた服が乾いてくると、忘れていた眠気が音もなく忍び寄ってくるようである。開け放たれた障子の先に目を向けて、「まだ止みそうもありませんね」とメフィストが言うので、「少しここで寝ます」と眼鏡も外さずに藤本が目を閉じようとすると、メフィストが密やかに笑う気配がした。うと、とした藤本に、「隣に畳の部屋がありますよ」とメフィストは言って、「布団はありませんが座布団はあった筈です」と、藤本の手を引くようにして障子を開いた。眼鏡を外して、瞼を擦りながら続く藤本は、「はいどうぞ」とメフィストが半分に折ってくれた座布団に頭を乗せる形で横になる。すぐにでも眠りに落ちそうな藤本は、でも「では、おやすみなさい」と告げてメフィストが囲炉裏端に戻ろうとするのを遮って、「先生も、…ここにいたら良いです」と言った。藤本には見えなかったが、珍しく本当に驚いたような顔をしたメフィストが、「何が良いんです」と尋ねれば、藤本はもうほとんど覚束ない口調で「主に俺が」と答えた。その後は、すうすうと無防備な寝息しか聞こえてこなかった。

それから数十分か、数時間だったのか、ともかく藤本がふと目を覚ますと、小川にかかる橋のたもとから縁側までの小さな庭を眺めるメフィストの背中が目に入る。部屋中の障子と襖を開けはなっているのは換気のためだろうか。それにしては暖かいような、と藤本が起き上がらないまま目線を身体に向けると、メフィストのコートが掛けられていた。藤本のものではない、とわかるのは、単純に仕立ての違いである。決して見た瞬間に身長差がわかるわけでは、と、藤本が誰にともなく心の中で言い訳をしていると、「まだ止みません」と振り返らないままメフィストは言った。茅葺の屋根に落ちる雨音はひどく穏やかで、すぐ近くを流れている筈の川の音も届かない。それは静かな空間だった。「…ここはいいところですね」と藤本が呟くと、「悪魔も多いですが」と、メフィストは先ほど斬り裂いたハルピュアを暗に示す。「俺はそういうの気にしないです」と言った藤本が、だいたい倒せるし、と付け加えると、メフィストは呆れたような顔で振り返って、「あまり数を減らされても困ります」と返した。低級悪魔が虚無界と物質界のバランスを取っていることは確かで、それはあらゆる物質が少なからず悪魔の介入を受けているということにも繋がるのだが、どちらにしても藤本には特に意味のないことである。だいたいの悪魔を倒せる藤本が、恐らくメフィストを倒せないと言うことも、メフィストと戦う気のない藤本にはどうでも良いことだった。だから、「はい、先生」と良い返事をした藤本は、もぞもぞとメフィストのコートを肩まで引き上げてまた目を閉じる。「君は良く寝ますねえ」と低い声でメフィストが掛けた言葉に、「どこでもじゃないですけどね」と答えた藤本は、少しばかり恥ずかしくなって寝返りを打ってしまったので、メフィストがほとんど素の顔で藤本を見つめていることに気付くことはなかった。



( 藤本神父はヴァチカン本部→日本支部(←今)→ヴァチカン本部/青の祓魔師/メフィストと藤本/110820 )