※メフィストと藤本の過去捏造話


そ の 日 は と て も  晴  れ  た  日 で




開け放した理事長室の窓から、早春の甘やかな風が吹き込んでくる。ゆるい空気に欠伸の一つも噛み殺せたら良かったのだろうが、あいにくメフィストはもう少し荒れた天候が好みだった。嵐や雷や台風や、日本では発生しないハリケーンなど。とは言え、ようやく開き始めた桜の花が散ってしまうのは惜しい、と思う程度にメフィストは日本の風流を愛していた。春には春の、夏には夏の、四季折々の良さがあるものだ。というわけで、雷を起こすわけでもなく右手に積まれた書類を一枚めくったメフィストは、気のない様子でざっと中身に目を通すと、ぽん、と判を押して左手の山に加える。日本支部の、今年の配属先を決める書類だった。3枚、5枚、10枚と、あまりやる気もなく山が高くなって行くうちに、理事長室前のごく長い廊下に誰かが足を踏み入れた気配がして、メフィストは僅かに視線を上げる。足音と速度からおおよそ誰かの見当はついて、メフィストは今処理したばかりの書類にちらりと目を落とした。書類にはヴァチカン本部、と赤字で書かれている。やがてとんとん、と遠慮のない音で扉が叩かれて、「どうぞ」と答えるや否や、

「失礼しまーす、ファウストせんせーい」

と、明るい声で理事長室の扉を開けたのは予想通り藤本獅郎で、メフィストは小さく溜息を吐いた。ぱたんと扉を閉めて、頑なに拒んでいた騎士団のコートにようやく袖を通した藤本は、どことなく誇らしげな顔でメフィストの言葉を待っている。ひとまず書類を押しのけたメフィストは、ゆるりと立ち上って客用のテーブルの前まで移動した。それから傘の柄を振ってティーポットとティーカップとケーキをふたつ取り寄せたメフィストは、藤本にソファへ座るよう促して、自分もその前に腰を降ろして「卒業おめでとうございます、”藤本神父”」と言って笑った。むず痒そうに口元を緩めた藤本は、「これでやっとファウスト先生と同じ舞台に立ちましたよ」と得意そうに言う。同じ、という言葉を笑い飛ばそうとして、でもできなかったメフィストは、程良い温度に温まった紅茶を一口啜ってから、「私はどうしたって祓魔師にはなれませんからねえ、あとは君が出世していく姿を下から眺めていくことにしましょう」とだけ藤本に告げる。さっそくケーキの上の苺にフォークを差していた藤本が、きょとんとした顔で「先生強いし偉いじゃん、名誉騎士でしたっけ」と首をかしげるので、その邪気のない声にメフィストは少し考えて、しかし考えるまでもなく藤本相手に嘘は無意味だったので、「私は人間ではないので」と返す。言葉だけではなく、普段は隠している尻尾をしゅるりと藤本に見せびらかしたメフィストは、本当は笑いたかった。銀のフォークで苺を差したまま、メフィストの顔を見つめて硬直する藤本と視線を合わせるメフィストは、つい数日前のことを思い返す。

冬がぶり返したように冷たい風が吹いていた。進学や進級を決めた生徒たちが顔を赤くして走り回るような浮ついた空気の中を、妙な一団が歩いている、と、理事長室から地上を見下ろしていたメフィストは思う。揃いの黒コートに銀の装飾、おまけに戦闘を歩く屈強な人間は、銀の銃弾を首から下げていた。ここがメフィストの領域であることは百歩譲っておくとしても、日本の、しかも一般の生徒が大勢いる中でそんなものをぶら下げて歩かないでほしい、と眉を潜めるメフィストは、しかし理事長室への直通の扉や鍵をどこにも作っていない。だからと言って丸腰でやってこられても毒気が無さ過ぎて詰まらないので、もう少しコートの下を工夫するとかどうとかしてほしい、などと考えている間に、取次の人間がやってきて、メフィストに上客の来訪を告げる。出来る限りにこやかにもてなそうとしたメフィストの誘いを断って、ずらりとメフィストの前に並んだ黒コート-ヴァチカンからやってきた『奇跡狩り』の面々は、メフィストは藤本獅郎との接触を控えるように、との警告を下す。「それはつまりどういうことでしょう?」と、あくまで道化を装って、優雅に足を組んだままメフィストが尋ねると、「彼はいずれあなたより上に行く」と短く切り捨てられて、メフィストは驚いたように目を見開いた。「私よりも!それはそれは、彼は三賢者にでもなるのですかね」と嘯くメフィストには答えず、「ともかくこれは警告です。あなたが極力その意思を示さない限り、我々は法規的措置を取らざるを得ない」とは、言外に『聖水と銀の銃弾を持って』と告げているのだろう。上級悪魔であるメフィストにとって、そんなものはただ痛いだけの存在だったが、ヴァチカンとやり合うのは主義に反する。聖十字学園在学中に上一級祓魔師に昇格した藤本は、既にヴァチカン本部のかなり高い地位を約束されていて、だからつまりはその華々しい経歴に一介の悪魔であるメフィストが傷を付けるなと、そう言う事なのだろうと予想は付いた。だからメフィストは、「彼は模範的な神父です。ここを卒業すれば、私より高潔な人物に自ら従ずるでしょう」と、彼らの望む答えを与えてやる。それはわずかに痛みを伴うものでもあったが、その痛みは悪魔であるメフィストにとって旧知のものだったので、メフィストは気付きはしても気に掛けることはなかった。

『奇跡狩り』がまたぞろぞろと退室した後で、かたん、と天窓を開いたメフィストは、ふかふかした長椅子に背を預けてゆるやかに目を閉じた。特に眠る気はなかったが、メフィストには無限にも近い時間が約束されている。その時間のほんの一部を裂いて、考えるのは藤本獅郎のことだった。藤本はなかなか面白い生徒で、入学式早々学園を抜けだした挙句、翌日の祓魔塾の時間にようやく帰ってきて、呆れかえるメフィスト以下数人の祓魔師に「あ、これお土産です」と隣町の洋菓子屋のケーキを差し出した。あまりにも邪気のない様子に思わず受け取ってしまったメフィストが、いや何か言わなければ、とようやく口にしたのが「私は和菓子の方が好きなんですが」だった時点でこの勝負はメフィストの完敗だった。「じゃあ次は苺大福にします」とにっこり微笑まれて、「楽しみにしてます」と返したメフィストは、すたすた普通に歩いて教室に入って行った藤本の後ろ姿をしばらく見送って、「いやそうじゃないでしょう」と自分で自分に突っ込みを入れたのだが、もう遅かった。ちなみにケーキはそこにいた皆で分けた。わりとおいしかった。後で聞いてみれば、藤本は新入生代表挨拶に駆り出されるのが嫌で入学前から逃げ出す算段をしていたらしい。そんなことに労力を費やす方が挨拶に割く時間よりも無駄なような気がしたが、メフィストは無駄なことが好きな悪魔だったので、「私の結界に引っかからなかったところは褒めておきますよ」と言った。支給される制服を始め、学園内で流通する物にはすべて微量の銀と聖水が含まれていて、それが学園中に張り巡らされた結界に呼応している。だから、藤本はそれに気付いたか、あるいは気付かないとしても学園外から持ち込んだ物だけを身につけて抜けだしたことになる。学生寮から正門まではかなりの距離があるので、それだけでも大したものだった。素直に賞賛したメフィストを、珍しい物を見るような目で眺めた藤本は、「先生は面白い人だな」と真面目な顔で言って、「また遊びに来ていいか?」と人懐こい顔で言う。「今日は遊びのお誘いだったわけではありませんが」と、メフィストが耳を揃えて提出させた課題と反省文の束を指せば、「うん、だから次は遊びに」と、レンズの向こうで緩く目を細めた藤本がメフィストの答えを待っている。

結局、「いつ来てもいるわけではないですよ?」という言葉で藤本を受け入れたメフィストは、この3年間わりと楽しかったのだが、しかしそれも今日で終わりである。藤本はメフィストが擁する聖十字学園を卒業し、メフィストは学園を離れない。いや、離れることができない。この広いようで狭い学園内だけが、メフィストが誰の赦しも得ずに動き回れる世界だった。もちろんメフィストは望んでその不自由さに甘んじているのだが、今だけはそれが歯痒いと思っても差支えないだろう。藤本が上に行く以上、いずれは知れることだった。だから、誰かに暴かれる前に、メフィスト自身が悪魔であることを明かしたのは、別れを決定的なものにしたかったからである。生半な言葉も他人の進言も何もかも藤本には通じないだろうと言う事で、上級悪魔特有の黒い尾をゆらりと優雅にくねらせれば、藤本の視線も揺らいだ。口を開いたままの藤本があんまり大きな目をしているので、メフィストが内心笑いそうになりながら「苺が落ちますよ」と声をかけると、藤本は素直に苺を一飲みにした。人間なのだから噛まなければ、と注意しようとしたところで、「先生、ヨハン・ファウスト先生ってのは、偽名なのか?」と藤本が尋ねるので、メフィストはまた少し考えて「本当の名はメフィスト・フェレスです」と名乗る。それなりに有名な悪魔であると自負するメフィストは、しばらく藤本の反応を待っていたのだが、藤本がそれきりケーキに集中してしまったので、メフィストも鋼のフォークを取り上げて手持無沙汰に生クリームをつついた。あの後、やってきた藤本は学園内の店で本当に苺大福を買ってきてくれたし、それ以外のものもくれた。生徒から搾取するわけには、と、メフィストも教師の限界を超えない範囲で様々なものを奢ったりしたのだが、でもあの時のケーキと苺大福に勝るほどのものはなかった。このケーキが、あの時と同じ隣町の洋菓子店の物だと言うことに藤本は気付くだろうか。目立った特徴はないショートケーキなので、これはただの餞別だった。去っていく藤本からの、メフィストへの。結局突いただけでフォークを置いたメフィストがまた紅茶を啜っていると、ケーキを食べ終わった藤本が音も立てずに立ち上った。これ以上一言も口を利かずに別れるのかと思うと少しばかり寂しいような気もしたが、それも仕方がないことだとメフィストは思う。この200年足らずの間にも、こんなことはいくらでもあったのだ。引き留める術を持たないメフィストには見送ることしかできない。

ああ、でもせめて用意していた祝いの花くらいは渡さなければ、と、メフィストが傘の柄を掴んだところで、そのまま部屋を出て行くのだと思った藤本が、ぐるりと机を回ってメフィストの隣までやってくる。まさかそう簡単に祓われることもないだろうが、「どうかしましたか、藤本君」と僅かばかりの緊張を滲ませてメフィストが尋ねると、「ファウスト先生」とやけに真剣な声で藤本は口を開いた。はい、と連れられてメフィストも重々しく頷けば、「それ、触っても良いですか」と、藤本が指すのはメフィストの尻尾である。一瞬何を言われたかよくわからなくて、「…尻尾ですか?」とメフィストが尾を遠ざけながら尋ねると、「あ、やっぱりダメですかね、急所とかそういうアレですよね」と、なぜか藤本がぶんぶん手を振ってごめんなさい、と言った。その姿がやけにしょぼくれているので、別に急所でもなんでもないメフィストがしゅる、と尾を目の前に差し出すと、途端に藤本の目が輝くので、「ええと、どうぞ」とわけは分からないなりにメフィストは言った。おそるおそる、と言った体で手を伸ばした藤本が、尻尾の先に触れると、やけに暖かい藤本の体温が伝わって、そういえば素肌に触られるのは久しぶりだ、とメフィストは思う。夏でも冬でもびっちりスーツを着込んでいるメフィストは、所詮借り物の身体しか持っていないので、暑さや寒さを感じることはあっても堪えることはない。だからというわけでもないが、藤本の体温を懐かしいと感じたこと自体が、メフィストにとっては想定外だった。人の温もりなどそう与えられたこともないのに。さわさわ、とメフィストの尻尾を撫でる藤本の顔は、いつか子猫を連れてきたときとほとんど同じ顔をしていて、じゃらしているのかじゃらされているのかわからない。メフィストが気まぐれに尾を揺らして藤本の手をすり抜けてやれば、子供のように声を上げて藤本は笑った。そういえばこれはこどもなのだ、と今さらメフィストは思った。

「意外とすべすべなんですね」と、ソファに戻ってメフィストの分のケーキを頬張る藤本が言うので、「毛むくじゃらの方がお好きですか」とメフィストが尋ねれば、「いえ、どっちでもファウスト先生なら好きです」とごく軽く藤本は言った。少し考えて、「私は悪魔なのですが、貴方はそれで良いのですか」とメフィストが紅茶のお代りを注ぎながら言うと、「良い悪魔もいるんだなと思いました」と藤本が言うので、メフィストはようやく唇の端を歪めて笑う。「悪魔に善悪の違いなどわかりはしませんよ」と、メフィストが角砂糖をふたつ転がしてやれば、「そんなの人間にだってわかんないですよ」と藤本は言った。「でも、今あなたは、」と言いかけたメフィストを制して、「俺がわかるのは俺がファウスト先生を好きだっていうことと、ファウスト先生を良い人だと思ってたってことと、先生が悪魔だって言うことだけです」と藤本は返す。今度は最後まで取っておいた苺をぱくりと口に放り込んで、今度はきちんと噛んで飲み込んだ藤本は、「もしかしてこれが悪魔に魅入られたってことなんですか?」とレンズの向こうで不遜に笑った。なるほど、と思ったメフィストは、いいえ、と首を横に振って、「私にそんな力はありませんよ」と告げる。必要がないからだ。良かった、とまた笑った藤本に、「ただ、私も君が好きなだけです」とメフィストが目を細めて続ければ、ティーカップに口を付けていた藤本がぶはっと紅茶を吹きだす。「何をしているんですか」とメフィストが呆れたように糊の効いたハンカチを差し出すと、「や、…先生が好きとか、言うからっ、…鼻に入りました」と、ハンカチを受け取らずに涙声で藤本は言った。「君も言ったでしょうに」とメフィストは首を傾げたが、「俺は良いんです…」と藤本が理不尽なことを言うので、そんなものか、と藤本の顔を拭きながらメフィストは頷いておく。

藤本がどうにか立ち直った後で、そういえばこれでは『奇跡狩り』の警告が守れないな、と思ったメフィストが「どうしましょうか」と藤本に持ちかければ、藤本は驚くほど明るい声で、「そんなの俺が先生に会いに来ればいいんですよ」と言った。メフィストはそれを嫌がる素振りをしておけばいいのだ、と。「…なるほど」とメフィストが顎を擦ると、「ね」と藤本がいつかの、初めて理事長室を訪れた時と同じ顔で笑うので、「君はいつでも良いことを言う」とメフィストは素直に藤本を称賛した。何より、藤本がいずれメフィストをも凌駕する地位を手に入れるのなら、『奇跡狩り』など恐れる理由もなくなるのだろう。メフィストと同じように。「…そんなことはないですけど」と、目を反らした藤本の頬が僅かに赤いので、子供が照れるポイントは良く分からない、とメフィストは傘を振って、用意しておいた花束を呼び寄せる。唐突に現れたそれに驚くことはない藤本も、「どうぞ」とメフィストが恭しく花束を差し出せば、「俺にですか?」と僅かに目を見開いた。「ええ、貴方に。卒業する貴方と祓魔師の貴方に、理事長である私と聖十字騎士団名誉騎士である私から」とメフィストが告げると、藤本は幾度か瞬いて、それから表情を一変させると、「ありがとうございます、フェレス卿」と片膝をついて花束を受ける。受け取ってから、「…やっぱりフェレス卿って呼ばなくてもいいですか?」と藤本が頬を掻くので、「君にそんな呼び方をされるのは座りが悪いですね」とメフィストが答えれば、「だったら、メフィストフェレス先生で」と藤本は一秒も考えずに言った。「長いです」とメフィストが両断すると、「じゃあ、メフィストフェレスって呼びます」と悪びれずに返す。藤本がメフィストの反応を待っているので、「まあ、構いませんが、そうなると私は君を藤本獅郎と呼びますよ?」とメフィストが藤本を見下ろせば、なぜか藤本が嬉しそうな顔で「先生俺の名前知ってたんですね」と見当外れの事を言うので、「知らないわけがないでしょうに」とメフィストは答えた。呼ぶのは初めてかもしれないが、それこそ入学資料から卒業証書まで、判を押したのはメフィストなのだ。「でも嬉しいです」と笑みを絶やさない藤本は、大きな花束に埋もれるようにしてソファに背を預けている。もう二度とこの姿を見ることもないなどと、先ほどまでの自分が良く思えていたものだ、とメフィストはゆるく嘆息した。悪魔とは強欲なものだ。手に入らないモノの末路がどんなものかはよくよく理解していて、だからこそヴァチカンの警告もあったのだろう。

「なるほど、これは予想以上でした」

呟いたメフィストの声は吹きこんだ春風にかき消されて、先生、と呼びかける藤本の声に、メフィストの意識も持って行かれてしまった。綺麗な青空が広がる3月のことだった。



( 仲良しだったらいいなと / (悪魔と知る前から)/ 青の祓魔師 / メフィストと藤本 / 110724 )