[月曜日の兄弟1 / おおきく振りかぶって]



月 曜 日 の 兄 弟 * 1



ある夜、浜田が狭い我が家に帰り着くと、中学生くらいの少年が壁に寄りかかって携帯を弄っていた。黒いパーカーとストレートのジーンズ。浜田の今日の服装と種類自体はあまり変わらないのに、どうにも小奇麗に見えるのは値段が違うからだろう。ボロアパートに似合わない育ちのよさそうな姿を横目で眺めて、何してんのかなあと思いながら錆の浮いた鉄階段を上る。カンカンカン、と足音だけでも景気よく鳴らし、ごそごそとポケットを探って鍵を取り出した。取られて困るようなものもないけれど、誰かがいたら怖いなあ、というようなふざけた理由で閉めている鍵は、案の定今日も空回りする。ああまた掛け忘れたんだな、いい加減自覚しないとな。呟いて、今度こそがちゃんと回したところで。
「なあ、あんた浜田って人?」
「へあっ?」
突然背後からかけられた言葉に飛び上がりそうになって振り返ると、先ほど下にいた少年が立っていた。浜田より頭半分ほど背の低い少年は、表札と浜田の顔を見比べている。っていうかいつの間に上ってきたんだ、あのボロい階段を。音しなかったんですけど。身軽そうな姿をまじまじと見つめていると、なあ聞いてる?とじれったそうに促された。なんていったっけこいつ、ああ、浜田って人?って。
「あ、うん、浜田」
「浜田良郎?」
「そうだけど…えーと、」
お前は誰だよ、とも聞けなくて、だけど(おそらく)年下相手に『あんた』もない気がする。『君』は寒いだろうし。ぐるぐる悩んでいると、俺は泉、と少年は尋ねる前に教えてくれた。気が効いている。が、…泉?って、誰だ。やっぱり首をかしげていると、わかんないよなあと少年は少し笑って、「ヒントは8年前」と言った。8年前というと、浜田は8歳だ。で、泉、目の前の少年。ああ、と浜田は思い当たる。
「母さんの…再婚相手、の?」
「そ。連れ子」
浜田の両親は8年前に離婚している。理由はお互いにいろいろあったらしいが、一番は父親の女癖の悪さらしい。が、離婚後に結婚したのは母のほうが早いというのだから笑える。浜田はなんとなく父親に引き取られたのだが、母が自分を連れて行かなかったのはそれが原因なんだろうか、と考えたことはあった。とはいえ父親が嫌いというわけではないし、母に遅れること3年後に結婚した義理の母親は若くてキレイだったので、皆幸せになるならそれでいいかと思っている今日この頃である。さらに一年後に生まれた妹はめちゃくちゃ可愛いしなあ、と意識を飛ばしている浜田をよそに少年--泉は話を進めていた。 あんたの母親の義理の息子な訳だから一応形式的にはあんたの弟になるのかな?なんないのかも知んないけど。どっちでもいいか。
「泉孝介。はじめまして。これからお世話になります」
つられてはじめまして、と返してから、え?と首を傾げた。これから?ん?という雰囲気が伝わったんだろう、泉も不思議そうな顔で、うん、これから俺あんたと同じ高校に通うことになって。家遠いから一人暮らしするはずだったんだけどなんか最後の最後ですげー反対されて、近所の私立に入れられそうになって。でも嫌じゃん、なんか。制服だって言うし。で、ごねたら最終的に母さんが「良郎が通ってるはずだからあの人に聞いてみる」って、コレは多分あんたの父親のことだよね?そんでいろいろあったけど結局あんたのとこに一緒に住めばいい…っていうようなことが、
「母さんから連絡来てない?」
ぶんぶんと首を振る。来てない。そんなこと一言も聞いてない。おかしいな、と泉が首を傾げるので、というかここには携帯しかなくて、母親はそれを知らない。というか下手すると実家の両親も知らないんじゃないだろうか。そう告げると、でも住所は知ってんだよ、俺がここにいるんだから、と泉は言った。確かに。こくりと頷けば、もしかして手紙とか来てんじゃね?とひどく良識的な言葉が帰ってきておお、と浜田は思う。そういえばポストなんてここ数週間覗いていない。ガス水道光熱費を口座引き落としにしたら、必要なものはほとんどなくなってしまったのだ。というわけで慌しく階段を降りて、
「あった」
「おー」
山のようなダイレクトメールとピンクチラシの山の中からあらわれたクリーム色の封筒には、確かに「泉」の文字が書かれている。そっか、開いて開いて。と泉が促すので、中身を破らないようにそっと封を開いた。中には久しぶりだと言う母の言葉と近況報告、それから今日の日付で泉孝介、がやってくるからよろしく頼むと言う旨が綴られている。すでに父の了承は取ってあるというので浜田に選択の余地はないらしい。こんな手紙一通で今まで会ったこともない、ほぼ他人と一緒に暮らすことになるんだろうか。あれっていうか、俺一応ここの家賃自分で払ってるんだけどな?と手紙を握り締めて突っ立っていると、じゃあそういうことだから、と泉は言う。
「よろしくな、お兄ちゃん」
と、血も戸籍も繋がらない弟はにっこりと笑った。マジでか、と呟いた俺の心境は推して計って欲しい。

もう一度腐りかけたような階段を上った泉は、お邪魔します、と言ってきちんと靴をそろえて上がった。小汚い玄関ですみません、とおもいながら浜田も扉を閉めて続く。結構キレイに暮らしてんだな、男の一人暮らしなんてどんなものかと思ってたけど。感心したように泉が言うので、そんなたいそうなものじゃなくて物がないだけだよ、と、アレなんで俺謙遜してんだっけ?何もない部屋の真ん中にぽつんと置いたテーブルと座布団に座ってもらって冷蔵庫を探る。…麦茶しかないな。しかも薄いな。いやしかし、客ではない?わけだし、と結論付けて、氷だけ浮かべて差し出した。どうもご丁寧に、と頭を下げた泉の前に腰を下ろして一息。あ、ヤバイな、と浜田は思う。泉の出現ですっかり忘れていたが、浜田はもう眠いのだ。何しろ肉体労働系のバイトを終えて帰ってきたところなので。風呂入って寝ちゃダメかな。だめだよな。もうちょっと話聞かないとまずいよな。ずっかりくつろいだ泉の様子をちらりと伺うと、ばっちり目が合ってしまって気まずかった。えーと、と言いかけると、「ごめん」と唐突に泉は言った。え?と首を傾げると、泉は姿勢を正して言った。
「親同士で話しついてるからいいんだと思ってたけど、いきなり来てごめん。驚いたよな?」
「…うん」
それはもう、飛び上がる程度には。何しろ、自分で言うのもなんだが浜田が住んでいるこのアパートは木造二階建7畳一間築27年というなかなかたいした建物なのだ。ちなみに7畳なんて半端な数なのは、10年前に無理やり改装工事をして小さな風呂を取り付けたからだという。ここにもう一人押し込もうというのはなかなか度胸がいる話だ。 とりあえずもうここの住所で入学受理されちゃってるからしばらくはここにいるしかないんだけど、なるべく早くどうにかするから。と泉は言った。
「どうにかって、どうすんの」
「…折り合いがつかないことにして一人暮らしとか」
「でもそれはダメだからここに来たんだよな?」
細くなった声に重ねて尋ねると、泉はこくんと頷いた。じゃあやっぱだめだよなあ、とこれは浜田自身に言い聞かせている。他人ではあるが、母の子だという。春から後輩なのだという。そうして、事情も聞いてしまった。しおらしい表情の泉を眺める。からん、と氷が音を立てて、薄い麦茶をさらに薄めている。 
「俺が心配してるのはどっちかって言うと、泉…が、この部屋で暮らしていけるかってことなんだけど」
言うと、泉は大きな目を見張った。零れ落ちそうだな、と思いながら浜田は続ける。見ての通り何もない部屋だし、狭いし汚いし夏暑くて冬は寒いし、学校には近いけどつまり駅から遠いし、自転車置き場には屋根がないから雨の日には自転車ずぶ濡れになるし。荷物置く場所もないし、と付け加えれば、それはあんまり送ってないから大丈夫と泉は言った。じゃあ。
「こんなとこでいいの?」
「西浦に通えるならそれでいい」
泉はやけにきっぱり言って、それからふう、と溜息を吐いた。何?と尋ねれば、浜田…さんが、やな奴じゃなくて良かったと思って、と言う。それは褒められたと思っていいんだろうか。随分率直な意見だ。ああでも、いっこしか違わないんだよな。
「浜田でいいよ。同じ部屋の中でまで上下、って面倒だろ?」
「でも、世話になるし」
「や、わかんないよ?案外泉のほうが俺の世話することになるかも」
朝起こしてもらったりとか、と言うと、泉は「なんだよそれ」と言って笑った。ああこいつそばかすがあるんだなあ。だからどうってこともないけど。髪質が家の家系じゃないな。でも笑うとちょっと母さんに似てるのは何でだ。8年間の重み?アレコレ考えているうちに本格的に眠くなったので、あとはまた明日にして今日は寝ることにした。夕飯は、と尋ねると「コンビニで済ませた」という現代っ子らしい答えが帰ってきたので風呂の使い方を教えてやる。とりあえず当座の問題は布団が一枚しかないということなんだけれど。まあ俺は一晩くらい座布団とバスタオルでもいいか、と思いつつ、風呂場の前に着替えとタオルを放る。あとは明日考えればいいよな。

泉の言ったとおり、翌日には泉の荷物がやってきた。運送会社の愛想のいい兄ちゃんはダンボール二つと布団袋を残してあっという間に去っていく。伝票をめくりながら、着払いでいいって言ったんだけどな、と泉は言った。それはまあいいんだけどさ。
「荷物って…こんだけ?」
「ん、そうだけど」
勢いよくガムテープをはがしながら泉は答える。てきぱきと細かいものをまとめている泉の後ろでなんとなく小さくなっていると、布団といてくれるか?と振り向かずに泉が言うので、袋を開けてとりあえずベランダに干しておいた。うん、今日はいい天気だからきっとすぐふかふかになる。満足して振り返ると、泉の荷物整理は半分くらい終っていた。すぐ使うものと衣類とこまごました日用品とそれから、野球道具が、一式。泉野球すんの?と尋ねると、肩越しに振り返った泉は「するよ」と短く答えた。その顔が少しだけ強張っているような気がするのは浜田の気のせいだろうか。なんで?浜田は首を捻ったが、荷物置く場所ってある?と泉が尋ねるので、腰を上げた瞬間に忘れてしまった。半間しかない押入れを半分開けて、というか元々すかすかだったので半分にまとめて、間をダンボールで仕切ると泉の持ち物はほぼそこに納まってしまう。少なくね?と尋ねると、浜田だってこれしか持ってないんだろと返されて言葉に詰まった。ああまあ、確かに。そうなんだけど。もっとこう、無駄なものっていうか本とかなんかないのかな〜、と思っていると、ごそごそと押入れに上半身を突っ込んでいた泉が「あ」と声を上げる。「浜田コレ」と差し出すのは去年の、というかこの間まで使っていた教科書だ。すでに懐かしい気がするのはなぜだ。
「これがどうかしたか?」
「もし今年のと変わってなかったら使ってもいいか?」
あ、復習とかするかな?と眉を下げるので、いや多分しない、多分というか確実に。浜田は笑って、開いてみればわかるよと言ってやった。泉は素直に一番上に乗せてあった現代文を手にとってぺらぺらとめくる。そして「ん?」と首をかしげた。
「なんか…新品ぽい?」
「使ってねーもん、ほとんど」
「えっ、コレ全部こんな感じなのか?ひょっとして?」
「数学はまだ何か書いてあるけど、あとはほぼ写しのノートで乗り切りました」
「う、うわー……悪いけど浜田、勉強できない人?」
「留年しかける程度には」
「うっそ?!マジ?」
「進級会議と成績会議に何度もかけられて吊るし上げくらってさあ、最後は拝み倒して4月から二年ですよ」
へえー、うわー、へえーー、という顔で泉が見ている。まあいずれわかっちゃうことだし、後々勉強教えて!っていわれても無理だからがんばれ。と、浜田は去年の担任が聞いたら首を絞められそうなことを言って笑っておいた。一番がんばるべきはお前だろ!!!と去年散々言われたことを思い出す。すみません、反省してます。想像の教師に謝っていると、じゃあ遠慮なく借りるな。と泉が笑ったのでそれでいいことにしておいた。

適当に昼飯を食った後、歯ブラシとかコップとか日用品を買いに行く、という泉と一緒に家を出た。ちゃり、と安っぽいキーホルダーをつけた鍵を泉の手に落として、6時くらいに帰ってくるからそれまでに家にいてくれると嬉しい、と言っておく。なにしろひとつしかないのだ。スペアキーつくんないとなあ。スーパーはあっち、コンビにはそっち、ちょっと歩けばホームセンターもあるからすきにしろよ?頭半分下にある泉の顔を覗き込んで言うと、わかった、と神妙な顔で泉は頷いた。よし。じゃあまたあとでな、と軽く泉の頭を撫でて歩き出す。と。
「浜田」
「ん?」
振り返れば「いってらっしゃい」と言って泉がひらりと手を振った。うわあ。とりあえず「いってきます」といって浜田も片手を挙げておく。なんていうか、二人暮らしも。



(悪くないかもしれない、なんて)

| 泉と浜田 | 偽兄弟パラレル/3月 | 05142008 |