[針柔らかに憂鬱は降る / おおきく振りかぶって]



針 柔 ら か に 憂 鬱 は 降 る



「あすかちゃんとはるかちゃん、だっけ」
「はっ?」
「さっき会った、花井の妹かわいーのな。双子ちゃん」
もーおばさんたちメロメロだった、とやけに楽しそうな浜田は俺の背中に顔を寄せて俺の背番号を縫い付けている。試合の後、少しばかり綻んでいたそれを気にしたのは浜田だ。別にこれくらいなら自分でもつけられる、といいかけた俺を制して裁縫セットを取り出した浜田は、俺のユニフォームを脱がせることもなく針を滑らせている。じっとしてろよ、と言われたので背筋を伸ばしてそっけない白壁(ところどころ薄汚れている)を眺めていた。ちくちくと、綻んだ部分だけでなく背番号全てを縫い直しているらしい浜田の手が少しばかりくすぐったいが、身を捩じらせるようなことはしない。元々8組の連中のように気安く喋るような関係でもないので、軽く緊張しているのかもしれなかった。今だに敬語の抜けない俺を浜田が少しばかり持て余しているのは知っている。思いついたように振ってくる話にも生半な返事しか出来なくて俺も心苦しい。でも先輩なのだ。俺たちのために心を砕いてくれる年上。それがどうして、8組の連中はともかくクラスメイトでもない阿部や水谷までが気安い態度でいられる理由がわからなかった。俺のほうが少数派なのはわかってるんだけど、知らなかったら何も思わなかったんだけど。背筋に影響しないよう緩やかに溜息を吐いた俺の後ろで、なんかさあ、と浜田が言うことには。
「あずさ、あすか、はるか、っつったら美人三姉妹みたいだよな」
「はああっ?!った!」
「あ」
びくん、と背筋を揺らした瞬間に、ユニフォームとアンダーをすり抜けて縫い針が俺の背中を襲った。うわ、うわ、うわ。いって、背中は無防備だよな、っつかそうじゃねえよ今問題なのは。なんだ、なに、びっくりした、ごめんな?と俺の背中を擦る浜田を肩越しに振り返る。
「今あ…ずさ、って、何で知って、」
「は?だから俺は援団作りたがるような人間なんだって」
てかもう何ヶ月一緒にいるよ、野球部は全員下まで知ってるっつの!ばし、と背中を叩かれて少し目が覚める。そっか、そうか、そうだよな。何を焦ったんだ俺。「あずさ」なんて、今のはただの世間話だった。ふう、と我に帰って、背中に置かれたままの浜田の手の体温をまともに感じて何かが一気に沸騰する気がした。撫でたよな、このひと。今俺の背中。やわらかく動く浜田の手のひらの感触に顔が熱くなった。なんだ、なんだ、なんだこれ。ちょっと待て、もう一度落ち着け。まずは離れるべきだ、と思って身体ごと浜田に向き直る。まだ針付いたままだぞ、とゆるゆる伸びる手を遮って、なんだか居た堪れなくなって顔を覆う。なんかこの反応は違うと思うんだ。
「…っつか…今ろくでもないこといいませんでしたか…」
「え、遅っ」
「名前ネタにされるのはもう飽き飽きしてるんで勘弁してください…」
あずさちゃんとか班分けで女子の組に分けられるとかあずさ二号とか。恥を晒すと、浜田は遠慮なく俺を指差して笑った。それはもう涙が滲むまで。それはちょっと大げさじゃないっすか、と言ったら浜田は涙を拭いながら「だって浜田が坊主な理由とか滲んで見えたから」とさらっと言われて軽くショックだった。坊主の女子はいないもんな、と浜田は言う。
「野球始めたのも名前のせい?背ェ伸びてよかったなあ、180超えの女の子は珍しいよな!」
「ちょっ、あの…古傷抉るのは…」
「え、マジで?うわ俺ちょっとすごくね?」
「勘弁してください!謝りますから!!」
ろくでもないにもほどがあるんだけど、何この人。泣きたいのは俺のほうなんですけど。思っても言わねェだろ、さすが8組だな。性格悪いっつーか地雷踏むのが上手すぎ。眉を下げた俺の顔がどれだけ情けなかったかは知らないが、浜田は無理やり笑みを押し込めてごめんごめんもうやめる、とひらひら手を振った。その指先が思ったより傷だらけで、この人本当は裁縫あんまり得意じゃないんじゃないかと思う。いや上手だけど、団旗も鉢巻も腕章もスゲーと思うけど。得意だから失敗しないわけじゃなくて、それだけ丁寧にしてくれているんだということを感じた。ずっと思っているけれど。黙り込んだ俺にちょっと笑って、浜田はもう一度ごめん、と言うので、俺もちょっと笑って、もーいいっす別に、と返した。なんとなく照れくさくなった俺が目をそらすと、浜田はへらりともう一段顔を崩して、
「ま、美人なのはほんとだからいいだろ」
「…は?」
今なんて、と言いかけた俺の声は、ほらあとちょっとだから後ろ向けって、という浜田の言葉に負けてしまった。促されるままに向きを変えて、ところどころ薄汚れた白壁を眺める。浜田の手は確かめるように背筋を辿って針を進めている。必要以上に跳ねることもない心臓が、俺は逆に不思議だった。今すごいこと言われた気がするんだけど。 もしかしてこの人タラシなのか。無意識に。コレだけマメだったら女子も騙せそうだけどな。でも気付かないんだろうな。今は、野球で頭が一杯だろうから。傷だらけの指先がそれでも針を握り続ける間、浜田は俺たちのものだ。それはとてつもなく傲慢で、でもそれ以上に真実で、だからこそ目一杯の優越だった。薄汚い白壁を通り越して、変わらない未来が見えた気がした。



(いつかその手を握ってみようと思う)

| 花井×浜田 | 10252008 |