[どこか誰かの深い夜明け / おおきく振りかぶって]



ど こ か 誰 か の 深 い 夜 明 け



「そこの野球部」
休憩時間、グランド脇のトイレが混んでいたので少し遠くまで足を伸ばした帰り道。今日のおにぎりなんだっけな、と楽しいことを考えて炎天下の暑さを忘れようとしている俺に、声がかけられた。え、誰、今夏休みで、この辺に他の部活動の奴らって来るんだっけ、と思いながら目を向けると、そこには鋭い目つきの武蔵野第一高校投手が立っていた。
は?幻覚?夏の暑さで?と何度か瞬いた俺に、その榛名(暫定)は「聞こえないのか野球部員」ともう一度言った。 「榛名さん…ですよね?」確かめるように言うと、榛名(暫定)は小さく頷いた。え、なんでこんなところにいるんですか?あ、阿部?ですか?呼んできますか。あたふたと尋ねると、いや違う、と榛名(決定)は短く言った。えーと、じゃあなんでこんなところに、と思っていると、「ハマダっている?」と榛名が言う。はまだ?はまだって…浜田、だろうか。ひとりいますけど、えと、呼んで来ましょうか?と言うと、仏頂面の投手は少しだけ表情を和らげて、「悪いな」と言った。一応用件とか、と言うと、「俺そいつに200円借りてんだよ」と榛名が返す。200円。200円てなんだ。どこで?なんで?浜田さん?
頭の中で?マークが渦巻いていたけれど、そこは運動部員の悲しさで、たとえ他校の生徒であろうと先輩との約束は最優先だ。バックネットまで駆け戻り、浜田の名前を呼ぶ。マネジと和やかにおにぎりの具をつめていた浜田は、ん?と言う顔で振り返った。どうした栄口、何か用か?というので、武蔵野第一の榛名さんが200円返しに来てるんだけど、と返すと、浜田はくっと首を傾げる。ハルナ?200円?覚えてないの?と尋ねれば、「記憶にない」と浜田は困ったように頷いた。別のハマダ、だったんだろうか。でも、背の高い”二年生”のハマダを、俺は他に知らないのだ。とりあえず行ってみるか、と呟く浜田にうんそうして、と頼み込む。俺連れてくるって行っちゃったし。榛名さんなんとなく怖いし。口には出さない俺のビビりが伝わったのか、浜田はもう一度頷き、篠岡に「ちょっと行ってくるな」と声をかけて立ち上がる。手洗うからちょっと待てな、と言うので、ほてほてと水道まで歩く浜田の背中を見ていた。
どこにいんの、と首にかけていたタオルで手を拭きながら戻ってきた浜田が尋ねるので、グランドのあっち、と指差した。浜田はすっと目を細めて、わかったサンキュ、休憩中にごめんな、と言って歩き出した。多分俺はもう休んでていいよってことなんだろうけど、気になったので後を追いかける。何してんのー、とベンチに寝転がる水谷が暢気な声を上げたけれど、またあとで、というのが精一杯だった。
角を曲がると、榛名は先ほどとおなじ場所に立って携帯を開いている。足音が聞こえたのだろう、顔を上げて俺たちを確認すると、ほっとしたような顔でぱちんと携帯を閉じた。俺が「連れてきましたけど」というのと、「ああハルナってお前か」と浜田が手を叩くのはほぼ同時だった。随分ご挨拶だな、と榛名がボソッと言うので、怒らせちゃダメだよ浜田さん!!と思っていると、ぷっとふたりが噴き出した。へっ?と思っていると、榛名は浜田を指差して「ダセージャージ」と笑った。ほっとけ、と浜田が返すと、お前ほんとに野球してないのな、と榛名はしみじみと言う。そういう話はこの間散々しただろ。ああうん、散々恨み言聞かされたような。それはお前もだろ。ウルセーお前俺がうらやましいくせに。お前、そういうところほんとにかわってないのな…。
淀みなく続く会話についていけず、え?え?とふたりの顔を交互に見ていると、浜田がはっと振り返った。あー、っと、俺中学時代、何度かこいつんとこと試合しててさ、と照れくさそうに浜田は笑う。え、でも榛名さん、シニア…と俺が恐る恐る口を出すと、うん、だから、シニアに行く前。1年と…あと2年の初め?か。浜田は、だよな?と榛名に向かって確認している。ごめん、驚いたろ?こんなでかいのがいきなり来て、と苦笑する浜田に、テメーも大してかわんねえだろ!と榛名が突っ込んで笑っている。
ドキッとした。この人は、野球してる浜田を知ってるんだ。なぜだか泉以外誰も知らないと思っていた。そこは泉だけの特権だと思っていたから、踏み込まずにいようと思ったのに。
じゃあ中学からの友達なんですか?と、無理やり笑みを作って尋ねると、ふたりは一瞬ぽかんと口を開いてちらっと視線を交わして、それから同時に噴き出した。いや、全然違う!っていうかほぼ他人だし!と吐く息の合間に交互に言う。この間の、うちの試合をこいつが見に来てて、と浜田が榛名を指差す。そしたら、偶然応援団なんかやってるコイツがいて、と榛名が浜田の肩をぺしりと叩く。で、なんかちょっと懐かしかったからいろいろ話して…あ、200円てあれか?と榛名を見て浜田は言った。今更だからいいっつったのに、と呆れた様にいう浜田に、今更って思ってんなら3年ぶりにあった奴の顔見るなり「アイス代」とかいわねえだろ?!この粘着!と榛名も負けてはいない。粘着とかお前に言われたくねえよ、こんなとこまでわざわざ200円返しに来るって…バカだろ?電車代のほうが高いだろ。バカはお前だ、この自転車が目に入らぬか。は?この暑い中チャリでここまで?やっぱバカだよバカ。だから夕方きたんだろーが!いや関係ねーよ、だいたい夏休みの他校によく入れたもんだ。
いつまでも続く軽口の応酬に困惑する。こんな浜田ははじめて見た気がした。俺たちといるときは同じように振舞っていてもすこしだけ大人びていて、応援団のふたりといるときは少しだけ幼く見えて。こんなふうにだれかと同レベルの(そして低レベルの)会話をする浜田は、初めてだった。結局俺は、あっやばっ、栄口そろそろ休憩終わる!と浜田が校舎の時計を示すまで、ひとりで途方に暮れながらふたりの会話を聞いていた。たかが数分がとても長かった。
えと、じゃあ失礼…します、と頭を下げると、ありがとな栄口、と浜田は笑う。ん、タカヤによろしく言っといて、と榛名も笑って、だからふたりはまだここにいるんだろう。途端に浮かんできたなんともいえない感情を振り払うように、もう一度頭を下げてグランドめがけて走り出した。遠く小さく、皆の声が聞こえる。あそこまで帰れば大丈夫だ。二つめの角を曲がったところで立ち止まって自分に言い聞かせる。
俺はまだ大丈夫。大丈夫だから。皆の前でいつものように穏やかに笑うためにゆっくりと息を整える。衝動も感情行動も全部”なかったこと”にして。



(榛名の声なんて聞こえない振りをすればよかった)

| 栄口→浜田 | 08032008 |