[絶望に少し似ている夢の後 / おおきく振りかぶって]



絶 望 に 少 し 似 て い る 夢 の 後



「あ」
自転車を押していた足を止めて、思わずこぼした声に花井が振り返る。なんだ?と聞くので、あそこのスーパーで牛乳買って帰るはずだったのに忘れた、と言うと、花井は感心したように溜息を吐いて、西広のそのマメさを誰かに分けてやりてーなあ、と呟いた。今ここにはいない二人のことを指しているのだろう。後ろを歩いていた水谷が追いついて、どっか行くなら俺もついてこっか、と言うので、いいよひとりで平気、ごめんね変な声出して、と笑顔で返した。そう?大丈夫?と沖も重ねるので、大丈夫大丈夫と手を振る。引き返すことになるし、ほんとにちょっとだけだから気にしないで、と言うと皆も少し笑って、じゃーまた明日な、気をつけて帰れよ、牛乳安いといいな、なんていいながら歩き出した。振り返りながら遠ざかる皆を見送って踵を返す。 嘘だった。牛乳は買って帰る予定だったけど、別にそれはここじゃなくてもっと家に近い場所だって、皆でいつも寄るコンビニだってどこでもよかった。ただ、今は少しでも早くひとりになりたかったのだ。試合のこと、目標のこと、これからのこと。考えることが多すぎてでもどれも手放したくなくて、どこから手をつけていいかわからない。
(甲子園、か)
いきたい、って言えるようになってよかった、と思う。俺にとってもそれはもう夢じゃないんだ、目標なんだ。だけどほんとはそれだけじゃなくて最高を目指すって言えるようになりたい。田島はすごい、と思う。そう言いきるだけの自身と実力がある。三橋だってすごい。自信なんてないのに、でも「やりたい」と言うだけの勇気がある。俺には一体何があるんだろう。何もないのに、何かを望むことなんて許されるんだろうか。ふううう、とすっかり重くなった息を吐き出して、それでも全部が嘘にならないようにスーパーに入って牛乳を手に取る。成分無調整、低脂肪。少し高くても家の牛乳はコレに決まっている。特売だけど、二本で396円になります。アルバイトのお姉さん(幾つなのかはよくわからない)の高い声に見送られて自動ドアをくぐっても、空はまだまだ明るかった。何もまとまっていないけれど、牛乳を買ってしまった以上はもう帰るしかない。夏場はすぐ傷むしなあ、牛乳だしなあ。今日の夕飯何かな。がちゃん、と自転車の鍵を開けたら「あれ?西広?」三台向こうから声をかけてきたのは浜田だった。あ、と声を上げて、途端に何を言っていいかわからなくなる。俺たちの夏が終わったように、この人の夏も終ったんだ。悔しいなんて、そんなこと。俺が思っていいんだろうか。だって何もしていない。謝ることも出来ない気がした。途方に暮れていると、どしたよ、と浜田は俺の顔を覗き込む。それは思いのほか柔らかい声で、俺は唐突に泣きたくなった。だってこの人は知ってる。知ってるんだ。「そこにいられない」というもどかしさを。黙ったまま浜田を見ていると、浜田は頬をかいて、とりあえず、と言った。一緒に帰ろうか。
最近小麦粉たっかいよなあ、俺あんまりニュースとか見ないんだけどでも広告はチェックしたいよな、だけどうち新聞とってねーからなかなかそういうわけでもいかなくてさあ。自転車を押しながら、浜田は取りとめもないことを延々と喋り続けている。気を使われているのかな、と思うけれど、でも浜田はなんだか一人でも楽しそうに話している。 ここにいるのが俺でなくても、浜田の立ち居地はきっと変わらない。気まずさの欠片もない優しい声はとても心地よくて、とても楽だった。 だから、なんだか聞いてもいいような気がしたんだ。浜田はなんで俺に声かけてくれたの?って。浜田はちょっと目を見開いて、ちょっと目を泳がせて、それからはあ、と息を吐いた。でもそれはとても柔らかかったので俺にはちっとも気にならない。そうして。 わかるよ、って言われたくないよな。ぽつりと浜田は言った。え、と顔を上げると、浜田は苦笑しながら続ける。お前らになんてわかるわけがないよって言いたくなることがあるよな。例えば俺はもう野球できないんだけどさ、できないんじゃなくてやらないんだとか、お前の気持ちはわかるけどもっと一緒にいたかったとかさ、じゃなかったら逆にものすごく優しく(そうだよな怖いもんな俺だったら耐え切れないよお前すごいよがんばったよ)とかさ。外野にいろいろ言われると本気で腹が立つ時期があったんだよね。なんでもないような顔をしながら、そんなことを言う。それは逆に浜田の中でまだそれは風化していないのだということを示しているようで、なんだか泣きたくなった。野球、したいんだ。この人は野球がしたいんだ。でもできないんだ。もうどうにもならないんだって自分で諦めるくらいに。それでも野球に関わろうとするくらい、野球がすきなんだ。そんな人に、応援されて、俺は、俺たちは。
だから、と浜田は続ける。だから俺には西広のことはわからないんだけど、俺にそういう時期があったってことを西広に言うことはできるよ。そこからどうするかは西広の勝手だけど、でも俺は来年もお前達を応援するし、再来年だってそうだし、今年だってまだ試合はあるだろ?俺はお前達が勝ったら嬉しいし、負けたら悔しくて悲しいけど、でもそれだけじゃないとも思ってるよ。俺は、そう思ってるよ。
浜田の言葉はひどく慎重に紡がれていて、でもすっぱりとした口調で、だから西広の胸にとても深く響いた。ぎゅう、とハンドルを握り締める。馬鹿みたいだ、と思う。一人で苦しんでいるような衝動に駆られていた。 簡単に『できるよ』なんて言って欲しくない。自分の実力は自分が一番よくわかっているつもりだ。だけどやりもしないうちから自分の限界に自分で線を引いて、そこまでできたらよくがんばったよすごいな俺たち、なんてそんな馴れ合いには眩暈がする。努力して出来なかったら悔しいけれど、その悔しさすら味わうことが出来ないのはもっと嫌だ。 望みさえすれば、どこまでもいけるだけの力を与えようとしてくれる人たちがいる。その手をとるだけの勇気があったら、そうしたら俺たちはもっときっとずっと遠くまで行ける筈なんだ。柔らかい声をしたこの人たちの、おかげで。
じわじわとこみ上げてくるものを押し殺して「うん」とだけ口に出した。うん、次は、絶対に。うん、と浜田も呟いて、そしてへらっと笑う。
「なんか俺留年してよかったかも」
それで丸々三年間お前達と一緒にいられるんだもんな。へらへらとした顔はやっぱり優しくて、つられて笑いながらそれは俺たちのほうなんだろうと思った。浜田がいてくれてよかった。本当によかった。



(軌跡のような一年間に感謝している)

| 西広×浜田 | 05042008 |