[忘れろ夜明けに見たものを / おおきく振りかぶって]



忘 れ ろ 夜 明 け に 見 た も の を



週に一、二度、塾帰りの電車で一緒になる男がいた。最初に意識したのはいつだっただろうか。終電近くのがらがらの電車の中で、背の高い金髪は妙に目立っていたのを覚えている。窓に写る横顔になんとなく見覚えがあって、でも記憶をひっくり返しても見覚えのある意味がわからなかった。 なんとなく眺めているうちに相手も俺に視線を向けるようになった。同じように首をかしげているのでやっぱりどこかで会ったことがあるんだろう。でも誰だっけこいつ。小学校や中学校の同級生でもないし(アルバムひっくり返したからわかる)今まで戦ってきた他校の野球部でもないし(忘れたりしない)誰だっけなあコイツ、と思っているうちに島崎の降りる駅がやってくるのだった。そうしてちらちら視線を送りあって3週間目に転機が訪れた。俺が乗り込んだ扉の真ん前に陣取っていた金髪とばっちり目が合った瞬間。(あ)と思った。そうだ、そうだよ。思い出したこいつ。西浦の応援団長だ、と呟くと同時に、相手も「あ」と声を上げた。
「あー、ああそうだ桐青の3番!…さん」
叫んだ後に、さん、と小さな声で付け加えた顔がおかしくて笑った。学ランではない姿はなんだか腑抜けていて、顔を見なければあの応援団長と同一人物だとはとても思えない。なんだそうか、そりゃあ覚えてなくても仕方がない。ああすっきりした、と思っていると、金髪は えーとあの、と居心地悪そうにしている。ああ、俺相手に何言っていいかわかんねーんだろうな。確かにあの試合のことは今思い出しても胸が痛む。けれどもそれとこれとは別の話だ。名前は、と尋ねると俺のっすか?と金髪は首をかしげて「浜田です」と返した。えーと、という顔をするので、「島崎。よろしく浜田」と俺も名乗った。手持ち無沙汰なのでぽつぽつと質問する。家こっちなのか、とか毎週この時間まで何してんだ俺は塾だけど、とか。まあそんなかんじで、ああ俺はバイト帰りで、と浜田は頭を掻いている。そのうち俺が降りる駅がやってきて、「そんじゃ」と手を上げたら「あ、おやすみなさい」と浜田が笑うのでなんかアレ?という気分になった。よくわからなかったけれどもなんとなくアレだったので、扉が閉まる瞬間にそれじゃ、に付け加えて「またな」と言っておいた。浜田の顔は見えないまま電車は行ってしまった。
それから週に一度同じ電車で帰るのが慣習になった。浜田は不思議に面白いやつだった。学年を尋ねたら1年だというので、それにしちゃあ落ちついてんなと利央や迅を思いだしながら感心するとあ、でもほんとは二年のはずなんでとよくわからないことを言われて首をかしげる。何ソレ?と聞くと、テレテレしながら「俺留年してて」と笑った。マズかったかな、とちらりと思う間に、「あっでもただの”バカ”なんで気にしないでいいっすよ」とすかさずフォローが入る。それ俺がするところだよな。うまいなあこいつ。にしても、二年てことは準太と同じなわけだ。へえ。じゃあひとつ違いだな、というとそうですねェとのんびりした声が返った。他校の人間相手に常に敬語なのを指摘すると、俺中学時代は野球部だったんで上下関係はうるさかったんですよ、と笑う。高校では?と尋ねると、もう身体がついてかないんで援団です、と鉢巻を締める真似をした。もうやんねえのか、と重ねると、島崎さんは大学でも野球するんすか、と問い返されて思わず返事に詰まる。「俺もそんな感じで」とわかったような顔で笑われた。
そんなことを何週間か続けて、いつの間にか俺は(料金の変わらない)一駅先まで乗り越して、浜田は(料金の変わらない)一駅前で降りて歩けばもうちょっと喋れるんじゃないか、というところにまで発展した。あいかわらずどうでもいいことを喋りながらコンビニに寄ったり走ったりレンタルビデオ屋に入ったりして四つ角で別れる。苗字と学校と最寄り駅、以外の個人情報はほとんど知らないのになんだか俺はその数十分間がとてつもなく楽しくて仕方がなかった。いつだったか「アレ?」と思った感情は今でも続いていて、そうして今ではアレ、どころではなくああこれってアレなんじゃねえの、くらいに思っている。
で、今日だ。浜田が腑抜けた顔で電車に乗っていたので、理由を尋ねると「腹減ったんですけど給料日前で金が」と情けないなりに高校生としては重大な問題提起をされた。仕方がないというか哀れだったというかまあ気が向いたので帰りのコンビニで肉マンを買い与えてやったらものすごく喜んだ。というか現在進行形で喜んでいる。あーあ。寒くなってきたしな、肉マン旨いよな。俺はピザ派だけど。そっすか?肉のほうが好きですよ俺。だから肉マンやっただろ。あ、はい。旨いです。ありがとーございます。あーあ。あー。はふはふと大事そうに肉マンを齧る浜田の背中に向かって言う。
「浜田さ、付き合ってるやつとかいるの」
「は?え、いないっすけど」
ていうかそんなんいたらこんなとこでうだうだしてませんてー、と間延びした声を上げる浜田にこんなところとはご挨拶だなと肘鉄を食らわせて沈める。島崎さんヒデェ…とべそをかく真似をした浜田は「キモイ」と切り捨てて、じゃあ好きなやつは?と重ねて尋ねる。浜田はやっぱりへらへら笑いながら「いませんて。何の調査なんすかこれ」と言う。そうかいないのか。まあそんな気はしてたけど。島崎さんは?と聞かれたので俺も付き合ってるやつはいねーよと返すとあっははお揃いっすねさみしー。独り身。と笑っている。あーそうだな。さみしいよな。だから もうさ、と浜田に向き合う。
「付き合っちゃおうか」
俺の言葉に、浜田は食べかけの肉マンを落としそうになって慌てて空中でキャッチした。すげェじゃんこいつ。でも具のほうを掴んでしまって「あちっ、うおっ」と格闘している姿はやっぱりどこか腑抜けていて笑える。残り半分を口に入れてしまってから浜田はえーと、と島崎に向かって首を傾げた。それって、肉マンの代金てことで?とおそるおそる言う浜田に、お前そんなに安くていいの?と逆に聞き返してやる。浜田はしばらく黙り込んで、それから「ホンキですか」とぽつりと言った。腑抜けた様子は欠片もなくなっている。どうしようか、という想いがちらりと脳裏を掠める。今なら冗談に出来る。なわけねえだろ肉マンごときでお前があんまり喜ぶからお手軽だと思っただけだよ、とでも言ってやればきっと何事もなかったかのように今日は終る。来週もまた同じ電車に乗って楽しく無駄話をしてそのうち受験が終って塾通いも終って、そこで俺と浜田の関係は一切消えるんだろう。いい思い出で終るか、悪い思い出で終るか、それとも。別の今日から、を作っていけるのか。大違いだぞ、よく考えろ。なんて。考えるまでもないことだった。アレ、と思ったあの日からもうずっと、俺は。
「本気だよ」
言うと、浜田はえーと、と言ってきょときょとと辺りを見回した。逃げ場を探しているようなその態度に、ああそりゃびっくりするよなと俺も思う。何しろ俺たちはほぼ他人な訳だ。友達、というのだって相当無理がある。そういえばアドレスすら交換していない。それくらいしてもよかったのだけれど、何しろ毎週決まった時間と場所で会っていたので(そしてそれ以外に会える時間もなかったので)必要なかったのだ。あーあ。ちょっとくらい泣きそうになってもいいよな。あーあ。あーあ。寒い。と、思っていると、浜田はえーと、と言ってへら、と笑った。笑うのか。この状況で?で、浜田は言った。
「あー、じゃあ、はい」
「はい?」
思わず聞き返してしまった。はい?って何が?え、島崎さん付き合ってくれ、って言いましたよね?言ったけど。本気だって言いましたよね?言ったけどさ、だから何。え?だから、「付き合ってくれ」「はい」でいいんじゃないんスか?ええ本気?え、そうですけど、本気なんですよね?本気だけど。ええーー。え、ちょっとこれでいいのか。それでいいのかお前。「俺男なんだけどさ」というと、俺にもそう見えますよと浜田は言う。「お前も男に見えるんだけどさ」というと、俺が女に見えるようだったら眼科に行ったほうがいいですよねと浜田は言う。「でも俺お前がすきみたいでさ」と言うとあー、あ、ありがとうございます、とテレテレしながら浜田は言う。
「え、…マジで?」
「マジですけど」
思わずぽかん、と口を開けて浜田を見てしまった。浜田はへらっとしてヨロシクオネガイシマス、と妙な抑揚で言うので、つられて俺もこちらこそヨロシク、と返した。なんだかきっちり頭を下げて、顔あげた瞬間にこいついなくなってたらどうしようとか思って、でもそんなことはなくて浜田は俺を見ている。普段別れている四つ角まではあと電信柱三本分くらいのところで、でも今日は。今日からは。ええ、えー。うわー。うわあ。なんか俺ものすごく嬉しいんですけど。とりあえず、と俺が言うと浜田は首を傾げたので、ケータイを取り出して突きつけた。「アドレス交換しよう」と。
別の「今日から」を、まずはそこから。



(短縮の一番に、『浜田良郎』を登録してみたりして)

| 島崎×浜田 | 04202008 |