[青を少しと自由を一つ / おおきく振りかぶって]



青 を 少 し と 自 由 を 一 つ 



「浜田ぁー」
「んー」
「お前、なんで最近こっちに入り浸ってんの?」

梅原は500ml紙パック入りはちみつオレンジのストローを噛みながら、机の横にうずくまる浜田を軽く蹴飛ばした。浜田が二年の教室にいたところで違和感はないが、こいつが昼休みをここで過ごしはじめてから今日でもう10日目になる。生ぬるいカルピスを飲んでいた浜田は、ちらりと梅原の様子を伺ってはっきりしない声を出した。いや、とかその、とか言いながらそのまま目を逸らした浜田に面倒ごとの匂いを嗅ぎ付けて、梶山も身を乗り出す。

「なんだよ、何かあったのか?」
「な、にもないけど…」

尻すぼみの声は後を引いて、浜田の視線は宙を泳いでいる。こんな状態で「何もない」ということに何か意味はあるのだろうか。なんかお前うちの投手みたい、と梅原が言うと、ミハシみたい?!と浜田も顔色を変えた。ひどい話だろうか。『ミハシ』を高く買っている(らしい)浜田ですらこの調子なのだ。いや、でもたしかに『ミハシ』とはなかなか目が合わないし、と思い直して浜田を見る。挙動不審な浜田はまた少しばかり視線を上げ、て困ったようにうっとおしいかな俺、と言った。誰も言ってねーだろそんなこと、と見当違いな発言を切り捨ててやると、浜田はそっか、と安堵したように笑う。貼り付いたような顔だった。

「…そういえばお前、野球部にもあんま顔出してないらしいな?」
「は、…何」
「花井が言ってたぞ?バイトで忙しいんじゃねーの、って言っといたけどそんなこともないんだろ」
「分かりやすいなーお前。野球部と何かあったのか?あいつらと喧嘩でもしたか」
「してねぇよ」

半ば冗談、半ば本気で言った梅原の言葉を、浜田は間髪いれず否定した。喧嘩とかそんな話じゃない、と浜田は呟く。その顔があまりに暗くて、梅原は少しばかり引いてしまった。梶山もおなじだったようで、軽口が止まる。今の声に、この顔。こんな顔をする人間だっただろうか。いつだって---へらへらと笑っている姿しか見たことがない。情けない、以外の表情をした浜田の顔からは普段のやわらかい雰囲気が丸ごと削ぎ落とされて、整った顔の造りだけが妙に際立っていた。

「…浜田」
「あ、…」

はっ、と浜田は我に帰ったような顔をして、それからぱっと表情を切り替えた。いつもどおりのへらりとした笑顔に。

「悪い、でもほんとに、そーゆーんじゃねえんだ」

野球部行かないのだってたまたまだしさあ、と笑いながら浜田は言った。ぐしゃり、と飲み干した紙パックを握りつぶしてそのまま立ち上がる。浜田はぱたぱたと汚れてもいないズボンの埃を叩いて、予鈴なったから俺もう行くな、とへらへらと手を振った。梅原と梶山は促されるように手を振って、ふらふらと歩いていく浜田を見送る。その背中が視界から消えると、梅原と梶山は顔を見合わせた。

「…なんだあれ」
「わからん」
「よな」
「うん」

とりあえず気持ち悪かったな、と梶山が呟くと、まあ浜田だからな、と梅原も呟いた。とりあえずゴミ捨ててくるわ、と梅原が言うので、じゃあ俺机直しとくな、と梶山も言う。授業始まるしな、切り替えないといけないよな。うん。頷いて、ふたりはそれぞれ立ち上がった。後にはなんともいえない空気だけが残されている。



「あー」

二年の教室を出て、昼休みの喧騒が残る廊下を進む。浜田の足取りは重かった。先ほどの会話は随分強引だった、と浜田は思う。あいつらに気づかれるほどおかしな態度をとっていたのだろうか。気が置けない仲なのも考え物だと小さく溜息を吐く。
結局うまい言い訳も思いつかないまま、また逃げ出してしまった。
また、というところで、はじめに逃げ出したときのことが脳裏をよぎる。忘れてしまいたい、と思うのに、そう思えば思うほど記憶に焼きついて離れてはくれない。浜田は頭を抱えたくなった。これではただの不審者だ。たったひとりの、ほんの少しの言葉で、どうしてこうなってしまうのだろう、と浜田は恨めしく思うけれども、そんなことは考えるまでもなく分かりきったことだったのでどうしようもなかった。
浜田が一年九組の教室にも、野球部にも行きづらくなったのは、はっきり言ってしまえば田島が原因だった。田島に言われた一言に、浜田が過剰に反応している。有体に言ってしまえばそういうことだった。一週間ほど前のことである。



あの日、浜田は野球部のグラウンドにいた。珍しくもない光景だった。練習風景を眺めながらボールを磨いたり、雑巾を縫ったり、マネジの手伝いをしているとあっという間に日が暮れる。何の強制力もない雑事は、でもだからこそ楽しくて、自己満足ってこういうことかなと浜田は思っていた。野球がすきなのだ。野球をしているやつらが気持ちよく野球できるための努力を惜しむ気はなかった。
練習を終え、汗だくでやってくる選手達にタオルを放ってやって、マネジと一緒に握ったおにぎりを配り終えると浜田もそろそろ帰る時間だった。家に帰って仮眠を取ったらバイトだなー、と思いながらがつがつとおにぎりを貪る演習たちを尻目に立ち上がる。軽く伸びをして、さて監督にアイサツ、と歩きかけたところで待って!と声がかった。まだ少し高い、でも伸びやかな。

「待って待って浜田、ちょっと俺話あんだけど!」
「話?何?」
「えっと、できたら二人で」
「ん?」
「出来たら二人で話したいんだけど」
「は?今日?」
「できたら今日!だめっ、か?バイト?」
「やっ、それは大丈夫だけど」

まあ仮眠なら別にここのベンチ借りてもいいわけだし、と考えて軽く頷いた。
ん、いいよ、と言ってやると、よっしゃじゃあまたあとでな!!と叫んで走っていった。まだ練習は残っているというのに、どこまでも元気な奴である。すぱっとした声がキモチイイなーとほほえましく微笑んでから浜田はベンチに腰掛けた。帰んねーのー浜田、だのおにぎりごちそうさまーという野球部にひらひらと手をふって、ひとつ欠伸をしてから横になる。喧騒が遠くなる音を聞きながら、ゆっくり目を閉じた。

「だ…まだ、はまだ、浜田?」
「んっ、…ん」

少しばかり乱暴な手付きで揺すぶられて、浜田は目を覚ました。うつぶせだった顔を上げると、明かりの消えたグラウンドを背に田島一人が立っていた。

「…れ、皆は?」
「もう帰ったよ!浜田スゲー寝てるからみんなびっくりしてた!」
「そっか…て、今何時だ?!」

俺10時からバイト…!と、青くなりながら浜田が慌てて身を起こすと、まだ9時ちょいすぎだから心配すんなよ、と時計を示しながら田島は笑う。浜田は、良かった、と胸を撫で下ろして誰かが(おそらくマネジか監督が)かけてくれたバスタオルを畳んだ。

「浜田疲れてんの?バイト大変?悪かったな」
「眠いだけで別に疲れてはないよ。家よりここのほうがバイト先近いし、平気平気」
「そっか…てか、こんなとこで寝るんなら言ってもらえばよかったな」

俺ン家で布団貸したのになー、と至極当たり前のように言う田島の顔に、健やかな感情を見つけて少しばかり眩しくなる。ひとつ年下なだけなのにこんなにキレイに見えるのは、浜田が汚れているせいなんだろう。それこそ疲れているだろう田島を早く家に帰すためにも、と、浜田はひとつ伸びをしてそれで、と切り出した。俺に話って何?と。その瞬間。田島の雰囲気がさあっと変わった。それはまるで一滴のフェノールフタレイン溶液がビーカーいっぱいの水酸化ナトリウムをあっという間に染めるように、劇的に。

「うん。浜田」

少しばかり高くてのびやかな声。いつもと同じはずのその音がそう聞こえないのは、田島が妙に落ち着いているせいだろうか。こんな田島は知らない。こんな顔は知らない。…知らない?
あ、と、唐突に思い当たる。違う、知っている。知っていた。これは、田島がバッターボックスに立ったときに見せる顔だ。いつもはフェンス越しに。熱気に包まれた状態で眺めているからすぐには気づかなかった。

(な、んで、んな…顔)

やばい、と浜田は思う。何がやばいのかは分からなかったが、これ以上この声とこの顔を前にしていてはいけないと、感情ではなく本能で悟っていた。逃げよう、という思いが唐突に浮かぶ。何からかは分からないが、荷にかが起こる前に逃げるべきだ。けれども、いくら理性でそう思っても浜田は田島から目を逸らすこともできなかった。
こんなにキレイな感情を前にして。
浜田がめまぐるしく田島の様子を推し測っている間に、田島はもう一度「浜田」と言った。
どくり、と浜田の心臓が大きく跳ねる。ああ、これでは、田島に聞こえてしまう。抑えなくては。田島はひたすら浜田を見ている。浜田も田島をみている。どうしよう。どうすればいい。
けれども田島は浜田の動揺になど目もくれず、そうして。

「浜田俺は、浜田のことスキだよ」

ひゅ、と浜田は小さく息を飲んだ。ゲンミツにスキだよ、と尚も重ねて田島は言う。
聞いては、いけなかった。こんなことを聞いてはいけなかったのに。
吸い込まれそうな色の瞳に、浜田の顔が歪に映る。この瞳に映る権利などないのだ。浜田はそれを痛いほど良く知っていた。身の程を知れ。自嘲にもならない戒めを何度繰り返しただろう。
どうしてこんなことに、と浜田は思う。浜田は田島に答えることが出来ない。
聞いてはいけなかった。こんなことを聞いてはいけなかったのだ。
浜田が黙って固まっていると、田島は静かに「浜田は?」と言った。そんなに静かな声で、そんなに静かな顔で、ひどく難しいことを聞く。何も返せないまま、浜田はようやく田島から視線を引き剥がして俯いた。真っ暗な地面と、薄汚れた浜田のスニーカーのつま先が目に入る。田島はどうして浜田にそんなことを言うのだろう。浜田は、ひどく薄汚れているというのに。

「…浜田は何が怖いの」

す、と形のいい手が伸びて、浜田は少しばかりびくりとした。が、田島は浜田の逡巡になど構いもせずその頬に触れる。身体の割りに大きな田島の手は浜田のそれとそう変わらない。節の目立つ指は、浜田の皮膚を伝って瞼にまで伸びた。

「震えてる?」
「お前が触るから、だろ」
「なんで?なんで俺を怖がるの?だって浜田だって俺のこと」
「言うな!」

田島の声を遮って、浜田は短く叫んだ。ああ、そんなことは、分かるに決まっている。
浜田が分かりやすい性格をしていることなんて、隠し事が出来ない人間だなんて、そんなことは浜田自身が一番良く知っている。けれどもここで流されてしまうわけにはいかなかった。浜田にも、田島開いてだからこそ譲れないことがあるのだ。

「…言うなよ。そんなことは、ない。ないんだよ」
「浜田、俺は」
「田島はかっこいいんだから、…カッコ悪い俺に構うようなこと、しなくていいんだよ」

最後の理性を振り絞って、田島の手を振り払う。叩き落すほどの勢いはなかったが、それでも浜田には精一杯の行為であった。そのまま、泣いているような顔でさらりと笑う。笑ったはずだ。このキレイな手を、浜田などが取っていいはずがない。 だって浜田なのだ。田島がそんなことを思ってはいけない相手なのだ。

「浜田はかっこいいよ!」

田島も、ほとんど叫ぶような音で言った。見ているこっちが恥ずかしくなるほど輝いた顔で、輝いた声で。浜田は照れることもできずに、どこが、と吐き捨てる。浜田のことは浜田が一番良く知っているのだ。そんなキレイな言葉で、安易に語られたくはなかった。
けれども田島は浜だの強張った表情などもろともせずに、全部だよ、と笑った。

「背が高いとこも、金髪なとこも、いっこ年上なとこも、団長なとこも、浜田が浜田なとこ全部かっこいいよ」

衒いのない様子で言葉を紡ぐ田島は、まっすぐ浜田を見ている。 浜田は射抜かれるようなその視線から逃れるすべを持たない。すごいな、と浜田は単純にそう思った。この小さな身体のどこからそんな力が湧いてくるのだろう。田島悠一郎、真っ黒でまっすぐな目をした4番。でもだからこそ、抗わなくてはならない。ぎり、と唇を噛み締めて胸にくすぶる感情を抑える。そして。

「ごめん、田島、ごめんな」

浜田はそう呟いて、浜田よりずいぶんと下にある田島の頭を一度だけくしゃりと撫でる。そうして、その感触を確かめるように自分に手を握り締めた。自分に許した最大限の接触だった。浜田、と何か言いかけた田島に背を向けて全速力で走り出す。追いかけてこられたら逃げ切れるわけもなかったが、そうした気配は感じられなかった。
あの輝きを、浜田がくすませるわけにはいかないのだ。何に変えても、それだけが浜田の全てだった。


はああ、と浜田は大きく溜息を吐いた。今思い出しても絵に書いたような醜態である。
あの時浜田はどうすればよかったんだろうか。何にしてもアレはいただけなかったと浜田は思う。あれでは何の誤魔化しも、きかない。

(笑えばよかったのかな)

笑って、何言ってんだよ田島、と冗談めかして流してしまえば良かったかもしれない。それはある意味距離をとるより田島を傷つけただろうが、それでもその方が良かった。田島が浜田で汚れるよりは、キレイなまま壊してしまうほうがずっと良かった。良かったのだけど。

(でもそんなことできなかった)

田島は真剣だった。魂が震えるほどひたむきでまっすぐで、浜田にそれを遮るような真似はとても出来なかった。だって田島なのだ。浜田が焦がれてやまない、田島なのだ。
回想に浸っていた浜田を現実に引き戻したのは、無常に鳴り響く本鈴の音だった。あたりの喧騒はすっかりなりをひそめていて、がらんとした廊下には浜田ひとりが残されている。いつの間に?一年九組の教室までは、まだ階段を二つ降りなくてはならない。今から急いで教室に戻って、教師に遅刻の言い訳をして、クラスメイトにからかわれてへらへらしながら自分の席に着く。そんな情景がありありと浮かんできて、浜田はどっと疲れを感じた。無理だ。できない。もう一度留年したらシャレにならないと思うけれど、とてもそんな気力はない。薄暗い階段を見下ろして、下るより上るほうが近いな、と浜田は思う。ありがちな話だが、屋上。昨年も随分と世話になった場所だった。5限目は自主休校。ついでに6限も。
浜田の足音だけが鈍く響く階段をゆっくりと踏みしめながら、これからどうすればいいかをぐるぐると考える。いつまでもこんなことを続けるわけには行かない。梅原や梶山に暴かれるのもごめんだし、野球部と疎遠になるのも嫌だった。何より応援団を、やめたくはないのだ。野球と、関わっていたかった。

随分時間をかけて最上階まで辿り着き、形ばかりの鍵−摘みを捻る−を開けて屋上へと踏み出す。少しばかり頂点をすぎた太陽に目を細めながら、後ろ手に扉を閉めた。がしゃん、と浜田は鉄の扉に寄りかかって、その冷たさに安堵する。何をしているんだろうか。浜田は一体何をしているんだろうか。あのときのことが全部夢だったら、浜田の願望が見せる夢だったら良かったのに。今からでも遅くない、今日までを全部夢にしてくれないだろうか。お願いだから、神様。信じてもいない、叶うとも思わない祈りを神に捧げてみたりして、その馬鹿馬鹿しさに浜田は少し笑った。暑いな、と浜田は思う。ああ、夏が。
と、遠くではじけるような歓声が聞こえた。何を、と思って浜田が振り返ると、どこかのクラスがグラウンドでサッカーをしている。どうやら点が入ったところらしい。楽しそうだな、と何気なくその風景を眺めていると、その内のひとりが、ふ、と顔を上げた。あ、やばいと思う間もなく、相手は浜田を認めてぱっと手を上げた。慌てて身を引いたが、ばっちり目があってしまったので言い訳は出来ない。あれは、水谷だ。これは6,7組合同の体育だったらしい。やばいなあ、と浜田はうずくまって頭を抱えた。7組には花井がいる。水谷から、すぐに話は伝わるだろう。別にサボりを怒られたりはしないだろうが、…いやするかもしれない。あれは、浜田とは別の意味で面倒見のいい人間だ。
あーあー、と浜田は今日はもう何度目になるかわからない溜息を吐いて、ふらふらと給水塔によじ登る。そこが一番人目につかない場所だからだ。上手い具合に日陰が出来た場所にごろりと横になって目を閉じる。 今はもう何も考えたくなかった。


「……うぉ…」

思い悩んでいる割にあっさりと眠りに落ちた浜田は、眠り込むのと同じだけの唐突さで目を覚ました。目を閉じているのに眩しい。そしてものすごく暑い。薄く目を開くと、いつの間にか移動した太陽が燦燦と浜田の全身を照らしていた。寝こけている間に日影も移動したらしい。まあそれはそうだよなあ、と寝惚けた頭で浜田は思う。むしろ今まで目を覚まさなかった自分がすごい。夏の午後の太陽はじりじりと浜田の皮膚を焦がしていく。寝惚けているというより、これはもう熱中症か熱射病に近い感覚なんじゃないだろうか。世界が熱湯に包まれているみたいだ、と浅く息を吐きながら浜田はぼんやりと考える。あれ、なんか、この感じは。

(なんか、田島みたい?か?)

ゆっくりと熱に侵されて行く、この感触は。熱くて暑くてぐらぐらして、気持ちいいのか悪いのかもわからないくらいもどかしくて、今にも逃げ出したくたまらなくてでも、少しでも近くにいたい。こんなのは、良くないことに決まっている。男同士だとか年下の同級生だとか野球部のエースだとか、そんなことじゃなかった。相手ばかりがこんなにキレイに見えるのは歪んでいる証拠だって、浜田にはそんなこともちゃんとわかっていた。正しくない。正しくないことなんて世界には溢れ帰っているけれどでも、浜田は田島に正しいものを与えてやりたかった。浜田が悩む全ては、つまるところ田島に思い悩んで欲しい全てなのだ。何をどう間違えて浜田などを好きだというのだろう。だって男なのに。ひとつ年上の同級生なのに。田島より頭ひとつ分大きくて、キレイな顔もしていなくて、田島の好きな胸も滑らかな皮膚も柔らかい髪も田島を受け入れる器官も何一つ持っていない。そんな言い訳のような何もかも。全ては「すきだから」の一言で終ってしまう。恋を、しているのだ。浜田は田島に恋をしている。キレイも汚いも関係ない、浜田の感情が浜田にはとても重くて仕方がなかった。こんなものを、田島に見せたくない。
校内で一番太陽に近い場所で、浜田は少しだけ泣きたくなった。

馬鹿みたいだ、と心の中で浜田は呟く。だってここには田島がいない。田島のいない場所で、田島のことばかり考える。その不毛さに涙も引っ込んでしまった。醒めた目で自分自身を振り返る。暑かった。それが一番辛かった。とにかく今はこの直射日光から逃れることが先決だ、と浜田は結論付けて、なくなってしまった日陰を求めてごろりと寝返りを打った。すると。

「…?」

そこには田島が給水タンクに寄りかかって、ぺたんと座り込んでいた。あんまり暑いから蜃気楼でも見えているんだろうか。ぼうっとした頭で浜田はそう思って、無意識のうちに手を伸ばした。ぺた、とジーンズの膝に触れて、ついでにまだまだ細い腰に触れる。うわ。触れるよ。じゃあこれは?……。ホンモノ。

「はあっ?!」
「うわっ!?」

一拍置いて脳がそれを理解すると同時に、浜田はがばりと身を起こした。急激な動きに寝起きの身体がついていかなくて、浜田の身体がぐらりと揺れる。うわちょっとこれ、落ちるんじゃねえの。そんなに高くねえけど痛いんだろうな、でもまあどうでもいいかな、なんて軋む頭で。けれども、うわっアブね、という声とともに腕が引かれて、浜田はまだ給水塔に残っている。気をつけろよ狭いんだからー、なんて笑われて、浜田はこくりと頷いた。うん気をつける。ありがとう。ありがとう、田島、助かったよ。
でもなんでこんなところにお前がいるんだよ。どうして俺は気づかなかったんだよ。

「何、してんの」
「それは俺の台詞!荷物置きっぱで帰ってこねーからどうしたかと思ったじゃん」
「あー…それは、うん。ごめん。でもなんでここにいんの。お前が」
「ん?浜田知らねーか、って野球部全員にメール送ったら、花井と水谷から『屋上にいる』って」
「ああ…」

さっきのはやっぱり水谷で、やっぱり花井にも伝わったらしい。すげえな野球部ネットワーク。ていうか仲良いよなこいつら。…タルい授業だったらメールくらい当たり前にするかもしれない、けれど。俺にはそんなことしてくれない、と本気で浮かんだ浜田は思った以上に重症なのかもしれない。何よりも浜田はまだ田島に引き寄せられたままだ。そっと手を引き抜いて逃げたらまた有耶無耶にならないだろうか、と今は見上げる形の田島を眺めながら浜田は思う。けれども、浜田は田島の腕を振りほどくことが出来ない。行動に移せない代わりに、せめて口で。でもそれは俺の居場所が分かっただけで今お前がここにいる理由にはなんないだろ、と浜田は一息に言った。だってそうだろう。今が何時かは知らないけれど、おそらくもう6限目は始まっている。浜田を起こして教室に連れ帰るならまだしも、ただ側に座っているだけなんて意味が分からない。田島が返事に詰まればいいのに、と浜田は思う。けれども。

「は?好きなやつの側にいたいって理由になんねーの?」

田島は少しばかり首を傾けて、浜田が何故そんなことを言うのかわからない、という表情で言った。
まっすぐな声で、まっすぐな目で、まっすぐなこころで。どうしたらいいんだろう。俺はどうしたらいいんだろう。どうしたら田島は俺を好きじゃなくなるんだろう。だってこんなのは間違ってるのに。田島が浜田を好きで、浜田が田島を好きだったら、もう誰もふたりを止めてはくれない。 困るんだ。こんなのは駄目なんだ。だけど。田島の腕は優しく、でも確実に浜田を繋ぎ止めている。浜田がこの手をとってしまえば。

「浜田」

田島が、田島の声で浜田の名前を呼ぶ。ただそれだけのことがどれだけ浜田の心を揺らすかなんて、田島には決して知られたくないのに。浜田は思わず田島の腕を握り返してしまった。ふ、と軽く笑った田島は、穏やかな声であの夜と同じことを言った。

「浜田は、何が怖いの」
「…ぜんぶ」

全部、怖いよ。浜田の口から出た声は、まるで自分のものじゃないみたいにか細く掠れていた。
そうだ、浜田は全部が怖かった。男同士だということも、世間体も、正しくないことも、恋をしていることも、田島に嫌われることも、田島が浜田を好きだということも、田島が真剣なことも、 でもなにより、そんなもの全部押しのけて田島が好きだと思っている浜田自身が一番怖かった。
田島にさらけ出すことが怖かった。全部吐き出して、浜田ははあ、と大きく息を吐く。これで浜田の手持ちはおしまいだ。これ以上は何もない。カラカラに乾いた喉が張り付いて上手く呼吸できなかった。息を殺して、浜田は田島を見つめる。田島は?田島はどうする。笑うだろうか?大丈夫だよ、と言ってくれるだろうか。浜田を、受け入れてくれるだろうか。けれども田島の口から出た言葉はどれとも違っていた。

「俺も怖いよ」

田島の声に、浜田は大きく目を見開いた。何が?全部。どうして?知らなかったから。穏やかな声の、微かな震えを聞き取って、浜田は強く田島の腕に縋り付いた。何を?お前が一体何を知らないというの。幸福の何もかも、生まれたときから全て持っているような顔をして。

「浜田に恋してる自分が、知らないやつみたいで怖いよ」

自分のことなのに、知らないうちにずっと浜田を見ていたり、浜田のことを考えていたり、ずっと一緒にいたいと思ったり、いつの間にかそんな風になっていた自分が怖いのだと田島は言う。 それなのに顔を見るとどこかかっこつけてる自分がいて、この前の夜もすごく変だった。好きだって言って、スキだって言って欲しかっただけなのに、なんか緊張して上手く言えなかった。
震える声で続ける田島を、浜田は黙って見つめることしか出来なかった。だって何を言えばいいのだろうか。嵐のような恋を、していた。浜田ひとりで。けれどもそれを、田島も同じだという。太陽は相変わらず照り付けている。掠れた声をした浜田の額から滴る汗が一滴、田島の腕を伝って落ちる。ぽたり。アスファルトに広がった染みは、瞬く間に乾いて消えた。まるで永遠にも似た、けれどそれは刹那の出来事だった。

「浜田」
「…たじま」
「うん」

お互いの背中に腕を回して固く抱き合った。 引き寄せたのか、引き寄せられたのかは分からない。どちらでもなく、ただ引き合ったような気もする。どちらでも構わなかった。浜田の腕の中に田島がいる。好きなだけ触ることが出来て、好きなだけ見つめることが出来る。それだけで充分だった。この存在を離したら息が止まるような気さえした。浜田は恋をしている。浜田はひとりで恋をしていた。優しいだけではない、キレイなだけでもない、全てが入り混じった嵐のような感情。それが今、ふたりにかわった。怖くて苦しくてどうしようもなくて、けれどもひとりではないのだと知った。 それ以外の何が変わるわけでもない、今だってすごく怖い。終ることも、制約も、田島も、浜田も、全部。けれどもそれだけで。ただそれだけが。だからこそ。 浜田が全身で田島を感じていると、キスしていい?と田島は尋ねた。答える代わりに、浜田は自分から田島の口を塞いでやる。触れるだけの稚拙な口付けを繰り返す。太陽に一番近い場所で、ただふたりだけが全てだった。



(太陽の中に、激しい嵐を飼っている。これからずっと、ふたりで。)

| 田島×浜田 | 04162008 |