[ 締盟ホロコースト ]



俊が練習に出てこなくなった。

最後に会ったのは一週間前のことだ。夏休みに入ってからずっと、毎日のように俺の学校の(俊にとっては他校の)部活に顔を出しては当たり前のようにそこで笑っていたのに、一週間、正確には8日前からぷっつりとそれが途絶えてしまった。初日に俊から電話があり、珍しい事に「すまん」と前置きしてから、「しばらく行かん」とだけ告げて電話は切れた。理由も何も聞けなかったが、俊が唐突なのは今に始まったことではないので事実だけを監督に報告する。俊は相変わらず皮肉屋で気分野だったけれど、人に嫌われることのない人間なので俺のチームメイトも随分残念そうな顔をした。なんで?理由は?夏風邪か〜?でも瑞垣頭いいだろ、と、監督が止めるまで賑やかに話は続いた。

そうして三日間が過ぎた。最初に電話があったから何も思わなかったが、さすがにそろそろ心配になって俺からも電話した。何度か機械音を響かせて留守電に切り替わった携帯は、それから何度電話しても繋がることはなかった。「しばらく」ってどれくらいだ?明日は出てくるんだろうか。
一週間目に、チームメイトから直訴が出た。『瑞垣の家を教えろ』というのだ。明日は久々の休みだし、連絡も取れないなら見に行くしかないだろ?と、半分心配で、半分興味本位のチームメイトたちがまくしたてるのをどうにか鎮めてはみたものの、とりあえず俺だけでも様子を見に行くことを約束させられた。家も近いらしいんだから、それ位しても罰は当たらないだろ?という彼らの言葉は至極まっとうだったので、俺も案外素直に頷いた。

とはいえ、俺も俊の家を訪れるのは半年振りだった。生まれてからずっと、自分の家のように行き来していたそれを自分で振り切ってしまってからどうにも気後れしていたのだ。よっぽどのことがない限りチャイムなど鳴らした覚えはないし、今更だが緊張する。相変わらず俊の携帯は繋がらないし、俊の部屋にはカーテンがかかっているので、俊がいるのかどうかもわからない。俊の両親は働いていて、今日は平日だ。どうする俺、今日は帰るか、いやでも休みは今日しか。珍しく悩んでいる俺の耳に、ぱたぱたと軽い足音が聞こえて、あ、と思った瞬間、内側から勢いよく扉が開いた。ぶつかるぎりぎりでそれを避けた俺を見上げた相手は、ぽかんと口を開けて言った。

「秀ちゃん?」
「おう香夏ちゃん、ひ…」

久しぶり、元気だったか?という慣例句はしかし、言い切る前にかき消されてしまった。

「秀ちゃん、お兄ちゃんに何したの」

しばらく見ない間に髪と背が伸びた俊の妹は、俺の言葉を遮って、見たこともないような顔で俺を睨みつけている。俺が俊の兄を殴った時だって、こんな顔はしなかった。香夏は今なんて?お兄ちゃんに?何を?俺が??頭一つ分以上背の低い少女相手に立ち竦んだ俺に、香夏はもう一度「何したの!」と今度は叫ぶように言った。

「ちょっ…俺が何、ていうか俊がどうかしたんか」

見に覚えのない言葉に動転しながらも、「俊に」「何か」という言葉にだけは身体が反応した。誰かが、何かを、俊に?それで俊は?困惑した俺の顔を、香夏はやっぱりきつく睨んで、それでも小さく口を開く。

「この間、秀ちゃんの学校から帰ってから、お兄ちゃん部屋から出てこないの」
「え…?」
「ご飯とかトイレとか、そういう時は出てくるの。でも、終わったらすぐ帰っちゃうし…!お母さんもお父さんもそういう年頃なんだ、って何も言ってくれないし…っ!!」

だけど、そんなの、今更だよ…お兄ちゃんお酒もタバコも高校入ってやめたんだよ?野球もやめて、勉強したり友達と遊びに行ったりそういうことに目が向くようになったからもういらないんだって、楽しそうだったのに、夏休みになってこんな風になるなんてありえないよ…。
ずっと考えていたのだろう、流れるように言葉を紡いで、ゆっくりと肩を落とした香夏は、泣きそうな目で俺を見ている。確かにそれはおかしい、だろう。用もないのにふらふら出歩くような人間ではないが、ろくでもない用を思い立つのは得意な人間だ。けれども、と、俺には大きな疑問が浮かんだ。俊がおかしいのは香夏の言うとおりだとしてもだ、けれども、そこで、
「それでなんで俺が出て来るんじゃ」
「だっておにいちゃんが変になるのはいつだって秀ちゃんのせいだもん」

秀ちゃんと喧嘩したときとか、秀ちゃんがホームラン打った試合の後とか、最近だったら入試のときとか…!今回だって秀ちゃんと会った後におかしくなったもん、だから秀ちゃんのせいなの!!
潤み始めた目をキッと瞠って、香夏ははっきりと言った。俺は、何も言い返せなかった。だって知っているのだ。もう、知っている。俊が何を思って中学時代を過ごしたのか。どれくらい思い切って野球をやめたのか。それなのにどうして今、野球をしているのか。俺のせいだ。確かにその通りだった。何も言わずに口を噤んだ俺に、香夏は不思議なほど透明な声で、

「なんで秀ちゃんはいつもお兄ちゃんを巻き込むの」

と、言った。なんで。わからないはずだった。俺が巻き込んでいるつもりはない、と言いかけた声はけれども、音になる前に終わってしまった。だって知っている。わからなかったはずの答えを、俺はもうわかりきっている。けれどもそれを香夏に告げるわけにはいかなかった。だって、俺は、俊は、たぶん。

「おい」

張り詰めた空気の中に、幾分不機嫌そうで皮肉がかった、けれども彼にとってはそれが普通の声が響いた。一瞬目を見開いた香夏は音がするほど勢いよく振り返り、俺の視界を塞いでいた面積が半分になって、俺にも声の主が見えるようになった。気だるげにTシャツの裾からぱたぱたと空気を入れて、いかにもやる気なさそうに現れた俊はいたって普通だった。少なくとも、香夏の言うように「おかしくなった」ようには見えない。「どうした」と尋ねたら、一瞬で笑い飛ばされそうな雰囲気だ。

「お前ら何考えとんのや、玄関口で騒々しい」
「俊、」
「お兄ちゃん…」
「俺で悪いか。香夏、お前部活やろ?時間大丈夫か」
「えっ、わぁっ!」

首をしゃくって居間の掛け時計をさした俊の視線を追って、香夏は慌てて俺を突き飛ばすように玄関から転がり出た。元々急いでいた様子だったし、おそらく危うい時間なのだろう。そのまま駆け出した後姿に、思わず助かったと思った俺の思考を読んだのか、香夏は俺を振り返って「お兄ちゃんにこれ以上何かあったら秀ちゃん許さないから!」と釘を刺していった。嵐のような後姿を見送りながら、何言ってんだあいつは、と呆れるように呟いた俊の声が後ろめたかった。

「それで?」
「え」
「え、やないやろ。お前香夏と話しに来たんか」
「や、いや、お前がずっと練習来ないから皆心配して、そんで…」
「そんで、お前が俺を見に来たんか」

最初に電話したのにな?と軽く首を傾げた俊は、まあいいかと言って「とりあえず中入り」と家の中を差した。 でかい図体で通路塞がんといて。首をしゃくって促す俊は、「や、別にここで」と呟いた俺を、なんやそれ、と小さく笑った。

「随分他人行儀やな」
「や、だって、久々じゃし」
「そうか?…そうだな」

小さく自己完結した俊は「じゃあ、まあええけど」と言ってジャージのポケットを探って、ひしゃげた箱と安っぽいプラスチックのライターを取り出した。え、と思った俺を尻目に、俊は当然のように煙草に火を付けた。それはあまりに見慣れた姿だったけれど、でも。

「タバコ」
「ん?」
「止めたんじゃなかったんか」
「止めたよ」
「じゃあそれはなんじゃ」
「止めるのを止めただけや」

野暮なこと聞くな、と俊はどうでもよさそうな顔で紫煙を吐き出した。こうした言葉遊びのような言い回しを俊は得意にしていて、けれども毎回俺にはあまり理解できない。香夏はなんと言っていただろうか。野球をやめたから、酒と煙草も止めた?じゃあまた野球を始めたから、煙草を吸うようになったのだろうか。俊はそれが何の得にもならないことを知っている。最初から最後まで意味もないことを知ってる。だから、一般論すら理解できない俺には何も言うことはできなくて、そして俊は何も変わらないのだろう。 昔より線の細くなった俊を眺めていると、「で、」と俊が口を開いた。

「ここでええて言うなら早く終わらせてほしいんだけど?」
「あ、うん、えーと、…お前、一週間何してたんや?」
「宿題」 「はっ?」
「だから、宿題。お前らんとこと違って、こっちは一年の冬から受験対策が始まるんでな、その、前準備みたいな宿題がもう死ぬほどたくさん」
「へ、へえー…」

淡々と訴える俊の顔には鬼気迫るものが感じられて、公立校のそれですら既にチームメイトとの交渉に持ち込もうとしている俺には想像もできないものなんだろうと思う。それなのに夏休みの前半をほとんど費やして俺たちに付き合ってくれてたのか、悪いことをした。ごめんな俊、と言いかけた俺の目の前で、俊はそれはもう人が悪そうににやりと笑って、「て、言ったらお前は信じるか?」と言った。謝罪の言葉を寸前で止められ、俺は必死で考える。考えろ。質問には、ちゃんと答えること。何を聞かれたかよく考えて、簡潔に答えること。信じるか、と俊は言った。だから。

「俊が言うんやったら、信じるけど」
「…はーっ」
「なんや、その溜息」
「予想通り過ぎて溜息しか出ませんでした、ちゅう意味や」

はああああ、とわざとらしく溜息を吐いて、俊は廊下に座り込んだ。俊?と言った俺の顔を見ないまま、「嘘や」と俊は言った。宿題なんて、授業のあるうちに終わらせてる。もう自由研究も新聞作りも日記もないしな、去年よりずっと楽なもんや。

「じゃあなんで」
「お前に会いたくなかったから」

きっぱりと言い切って、けれども俊はやっぱり俺を見ない。みないまま、明確な口調で。もう限界だったんだよ、一度捨てたのに、コレでやっと全部終わると思ったのに、俺にもお前にも、これが一番いいんだって、思ってたのに。なのに。

「結局お前に、また、関わっちまって」

もう逃げられないんだなあって、思った。当たり前やな、俺自身に逃げる気なんてこれっぽっちもなかったんやから。お前が遠くに行ったら忘れられるかと思ったけど、結局お前、まだ近くにいるし。何で行かなかったんだよ、県外。お前が、あそこで、諦めていたら。放っておけばいつまでも続きそうな繰言に苛立って、俊の肩を掴んだ。

「お前がどう思おうが、俺にはお前が必要なんじゃ」
「そんなん最初から知ってる」

俺の手を振り払いながら、だから困るんだ、と俊は言った。お前だけに言われても困るんだ、と。お前がそうやって、特に価値のない俺のことばっかり気にするから。

「皆お前を通してしか俺を見ない」
「そんなことないやろ」
「お前がそれを言うの?お前、お前の横にいる以外の俺って想像したことあるか?」

あると言い切れなかった俺へ、俺もないわ、と吐き捨てるように俊は言った。妹にすら、俺の中にはお前しかないって思われとるんやぞ?気持ち悪い話だろ?言って、俊は口の端を少しだけ吊り上げた。笑ったつもりだろうか。

「気持ち悪いだろ?」
「いや、」
「俺は気持ち悪いよ」

何でお前なんだよ、と俊は言った。他にいくらだって人間はいるやろ、お前以外にも。この狭い町内にだって幼馴染は何人もいて、半分は女なのに、同じ条件の中でなんでお前を選んだんだ俺は。お前もお前だよ、どうして、お前まで俺だったんだ?背も高いし、野球もうまいし、今までもこれからもお前をすきになる奴なんてたくさんおるのに、どうして俺に決めたりしてるんだ。俺はずっと気持ち悪かったよ、どこで刷り込まれたんだって、いつ消えるんだろうって、取り返しがつかなくなってから消えたって意味ないんじゃないかって、もう、ずっと。

「何度も言っただろ?お前なんて嫌いだって」

ほんとだよ。ほんとにしたかったんだ。お前が俺を嫌ってくれたら、俺もお前を諦められると思ってた。勝手に思ってるだけなら、始まりも終わりもしないだろうし、お前に気付かれることもなかっただろうし。でも全然うまくいかなかった。お前の無神経さって、時々賞賛に値するよな。呆れたような声で俊は言った。ああ、俺はお前がそんな風に思っていたなんてちっとも知らなかったよ。俊、と言った俺の手を掴みあげて俊は、だから今度こそ俺が行動することにしたんだと言った。

「この一週間、賭けをしてた」
「何の」
「お前が、10日間、俺を迎えに来なかったら、もう止めようと思った」
「何を」
「お前の幼馴染って言うだけの立場を捨てるのを」
「…どういう意味や?」
「ここ数年の俺は、お前の、なんだった?」
「え、…チームメイト?」

友達というには近すぎたし、親友とはまた違う気がする。腐れ縁というには生々しかったし、何より嫌々一緒にいたわけではなかった。俊との15年で一番深く刻まれているのは、やはり野球なのだろう。脳をフル回転させて出した答えは、俊に鼻で笑われて終わった。

「お前はチームメイトなら誰とでも寝るの?」
「な…に言っとんのや?!!」
「それは俺の台詞や。散々したやろ、ここでもお前の家でも。それでチームメイト?あほか」

それとも俺はただのセフレだったか?男同士でも何でもやらせてくれるしやるのに抵抗もないしいっか、で何も考えずに寝てた?好きあってたら名前つける必要もないか?玄関先で不穏な発言を繰り返す俊の声はどこまでも冷静だったけれど、だからこそ有無を言わせない響きで俺を責めた。すきとか嫌いとか一切言い合わなかったのは分かり合っている気がしていたからだ。違う、わかりあえないことがわかりきっていたから。

「悪かった…」
「はは。思ってもないくせにな?」
「悪かったって」
「謝るなよ。だってお前、俺と寝るより俺と野球するほうが楽しかったやろ?知ってるよそんなこと。どっちかにしてくれたら、どっちか拒むことも出来たのにな」

俊の言葉は全部その通りなので、俺は一切反論もできずに皮肉ではない声を聞いている。俺を責めているわけではないのだろう。だって合意の上だった。すきあっていた、と俊は言う。そんなこと初めて言われた。嬉しいと思う俺は、でもやっぱり俊と野球がしたいのだ。すきではなくてもできることのほうが、すきだからしていたことより重いなんて、どうかしている。呆れられるのも当たり前だ。俊に言われたことがようやく腑に落ちた気がした。…けれども。

「お前、それだけ思ってたのに、なんで俺と一緒にいたんじゃ」
「お前俺の話聞いてたか」
「聞いてたけど」
「…お前がこんだけ言われて俺に腹立てんのと同じ理由や」

それくらいはわかってくれよ、頼むから。俺が散々回避しようとした結末だけど、でもお前は引かないし俺も引けないみたいだ。10日以内に迎えに来たしな、だから諦める。幼馴染やめて、

「秀吾」
「うん」
「すきだよ」
「…うん」

すきだから、お前に俺をやる。 お前しか俺を要らないんだったら、お前に全部やる。 俺はお前しか要らないんだから、お前にやったって何も惜しくないしな。でもその代わり。

「全部やるから、全部ほしい。いいか?」
「いいよ」
「よく考えろよ?重い話をしてる。これから先、お前の人生全部に俺が関わるってことなんだからな」

進学しようが就職しようが、プロ野球選手になろうが、俺はお前を離したりしないからな?世間一般で言うところの幸せの最終形態である結婚や子供も諦めろって言ってる。誰かにのろけるのも難しい関係だし、歳をとればとるほど奇異に映るだろうけど、それでもいいのか? 高校生で将来まで誓うなんてものすごい重い話なんだぞ?俺はもう散々覚悟した。でもお前は?今まで何も考えてこなかっただろ?本当に、それでいいのか。
真剣な顔で俊は言った。だから俺も真剣に考える。一生一番近くに俊がいる生活を。考えてみて、あれ、と首を捻った。何も違和感がない。

「なあ、俊」
「ん?」
「それって、今と何が変わるんや?」
「ん、秀吾にしては聡い発言やな」

「何も」と俊は言った。

「何も?」
「何も変わらんよ。だって俺らは、もう何年も前から普通の幼馴染やなかった」
「なんじゃ、なら、覚悟も何もないな。俺はお前が隣にいる以外の未来を想像したことがないんじゃから」

おまえも、そうなんじゃろ?笑って言った俺の顔を、座り込んだままの俊が見上げる形で見つめる。そっか、と言って俊は笑う。笑ったはずだ。ただ笑う俊の顔が思い出せなくて、俺にはそれを笑顔と確定することが出来ない。けれども、引き攣れても皮肉そうでもない柔らかな線は。

「じゃあ、ずっと、一緒にいような?」

したら、誓いの握手な。左手を差し出しながら、どこか吹っ切れたような笑顔で俊は言った。笑っているのに、まるで幸せそうに見えないのはなぜだろうと俺は思う。俊はさっき言ったな、一緒にいないほうが、俺にも俊にも幸せだった?そうなんだろうか。俊の言うことはいつだって本当だった。けれども、俺は俊が好きなのだ。俊も俺が好きなのだ。正しいことだけで世界が回っていくわけではないと、俊が教えてくれた。俊が俺を選んだということはそういうことなんだろう。そうに違いない。これから続く一生を思いながら俊の手を強く握った。


(門脇と瑞垣。きっとそれは最悪の結末 / meisai_logic)