[ 零名インダストリアル ]



虫を殺したんだ、と瑞垣は言った。

熱帯夜だというのに、やましいことをしていたせいで窓を開けることもできなかった部屋の中は熱気と湿気に満ちている。もちろん、門脇の部屋にクーラーやエアコンといった高級なものが着いているわけもない。せいぜい壊れかけた扇風機がいいところだ。が、今はそれも手の届かない場所に転がっている。
瑞垣はごろりと寝返りを打って、無我夢中で抱き合ううちに蹴飛ばしてしまった上掛けを背中まで引き上げた。うつ伏せになって枕を抱える身体は一年前より成長しているはずなのに、門脇は触れるたびにその肩の薄さに困惑してしまう。同じ密度で時を刻んでいくはずだった幼馴染がずいぶん遠いところに行ってしまったような気がして、だから門脇は躊躇しながらその身体に触れることを止められない。瑞垣も拒まない。薄暗い部屋の中、瑞垣は手探りで枕元を漁って取り出した煙草に火をつける。吐き出された紫煙は暗がりにやわらかく霧散して、微かな残り香が散った。中学生時代から瑞垣に染み付いたその匂いは、当然のように門脇の部屋にも移ってしまっている。
そうして、当たり前のように煙草をふかしながら、少しばかり掠れた声で瑞垣が言ったのだ。虫を殺 した、と。

「昔な」
「…へえ」
「灯りによって来た小さい虫をな、指で潰して落とした」
「よくあることじゃな」
「ああ、そうだよな」

ただ、と言って瑞垣は緩く目を伏せる。まだ生きてた。
殺した、と、まだ生きてた。話の繋がりが良く分からなくて、いや瑞垣の話はいつだって門脇にはうまく伝わらないのでそれは別に構わないのだが、なんでもないような声で話す瑞垣の姿を見るのは久しぶりで門脇は少しばかり途方に暮れる。嫌味も皮肉も忠告も世間話もすべて遠くから周り込んでくることにはもう慣れたが、こんなふうに緩い話まで-あるいはそう見える話まで-遠いことはないのだ。隣にいるはずの瑞垣はいつだって手が届くようには見えない。

「そのまま、水飲み終わったコップん中に落っこちてな」
「…ああ?」
「飲み終わっても、微妙に水って残ってるだろ。そこで生きたままずっともがいてて」
「はあ」

最初はそのまま放置しようとした、と瑞垣は言う。飲み干したあとの空のグラスはどうせあとで洗うのだから気にすることはないだろうと。でも、そばらくしてから何の気なしにグラスを覗けば、虫はまだそこで足掻いていた。どうせ殺すはずだった虫だ。どうなろうとどうでもよいと思った。思ったのだが。
門脇には聞いているより他にすることもない。ただ瑞垣の少しばかり細くて節のしっかりした長い指を見ていた。瑞垣は器用にフィルタを咥えたまま話を繋げる。

「見てて気分悪くなったから、とにかく最後まで潰すか助けるかしようと思ったんやけどコップが小さくて指が届かなくてなー」

仕方がないから台所まで行って、乾いたシンクの淵に虫を落としたのだと、言いながら瑞垣は小さく笑う。瑞垣がそうして笑う顔以外を、門脇はもうずいぶんと見ていない。例えば幼いころ河原で一緒に野球をした、あの時のような顔はもう二度と見られないのだろうと初めて寝たときに思った。

「それでもやっぱりすこしずつ水がまとわりついてて、だから少し掃ってやろうって思ったらそいつは俺の指から必死で逃げて、シンクに落ちてそこで死んだ」

死んだ、というところで瑞垣は軽く手を握ってから ぱっと開いた。薄闇の中でそう柔でもない手が妙に白く浮かび上がっていて門脇は思わずぞっとする。先ほどまであんなに熱かった手とはとても思えない。門脇がどれだけ熱を与え合ったつもりでも、本当は瑞垣から奪うことしかしていないのではないだろうか。それは熱以外のすべてに言えることだと門脇は知っている。少しばかり頬を緩めた顔で瑞垣は重ねて言う。

「虫なんて何百匹も潰してるんやけどなあ。アレだって、最初から殺すつもりで触ったのに」

でも今でも覚えてる。俺が残した水の中で足掻いてもがいて溺れて乾かないまま動かなくなるまでの一連の動作を、まだ覚えてる。
ゆっくりと、長い時間をかけて煙を灰へと下ろしながら瑞垣は門脇を見た。門脇も瑞垣を見ている。何を言われてもおそらく門脇に瑞垣が届くことはないし、何も言わなくても門脇のすべては瑞垣に届いてしまうのだ。なんて理不尽な、と門脇は思う。そして思うことがまた瑞垣にとってどうしようもなくくだらないことだろうと、それは門脇にも分かっている。だから。

「それがどうかしたのか?」
「うん?…うん、なあ。なんだろうな。俺にもよく分からん、けど」

瑞垣はしばらく考え込むような顔をして、それからぼすんと枕に顔を埋めた。伏せる前に煙草は指に移っている。あるかなしかの明かりが瑞垣の手を少しばかり赤く染めていて、門脇は無感動にいつでもこうあればいいのにと思った。それもまた傲慢である。しばらくそうしてから、瑞垣はゆっくり門脇に顔を向けた。それは見慣れた皮肉めいた顔で、その顔で瑞垣がつむいだ言葉は、

「おまえが」

お前が高校推薦を辞退したって聞いたときそれを思い出した、と瑞垣は呟いた。
それきり黙ってしまった瑞垣の指の先で、微かな明かりが小さく音を立てて揺らぐ。そのまま空き缶の縁に押し付けられた吸殻は音もなくその役目を終え、瑞垣の腕がぱたりと布団に落ちた。瑞垣はそのまま片腕で枕を抱え、こちらを向いたまま目を閉じる。

門脇は、瑞垣のその静かな顔をずっと見ていた。

助けようと、したのだろうか。門脇が瑞垣にすら告げずに行った推薦破棄を、その意味を知った上で詰ることも笑うことも何一つせず、しばらく連絡すらとろうとしなかった門脇を。門脇が何の意識もせずに15年間突き落としてきたことは省みもせず、ただそれを逆恨みだと思い続けて、それでもどうしようもなくて吐き出して傷つけたことを門脇自身が忘れてしまっても瑞垣は覚えている。まるで門脇が忘れてしまったすべてのことを瑞垣がひとつずつ拾って集めているようだ。そんなことを門脇は望んでいないというのに、そして当然瑞垣もそれを知っているだろうに。
瑞垣が門脇に抱く感情が虫を潰すほどの簡単なことか、それとも殺そうとした相手を助けようとしてやはり死なせてしまった罪悪感か、どちらなのか門脇には分からない。けれども、おそらくは両方なのだろう。
誰とも比べようのない15年間を一緒に過ごした。きっと棄てることも忘れることも、どちらにだってできない。憎んでも嗤っても泣き叫んでも、なかったことにはできない。それくらい深い年月を重ねて、ついでのように身体まで重ねてしまった。

これから先を瑞垣とともに歩いていけるだろうか。門脇が躊躇なく飛び越えるすべてのものに、瑞垣はことごとく背を向けるだろう。おそらく誰の目にもそれは明らかで、門脇にだってそれは分かる。それでも、今ここに瑞垣がいるように、おそらく随所に瑞垣は姿を現すのだろう。瑞垣が望まなくても、門脇が強要せずとも、そうなってしまうはずだ。
殺してしまった虫のことすら忘れられない人間が、殺しあって愛し合った人間のことを忘れるはずがない。どれだけ遠く掠れようとも、それだけは変わることはないだろう。
門脇はゆるりと目を閉じる。門脇が起きている間に瑞垣が眠ることはないからだ。今も、少しも動かないからだが本当は覚醒していることを門脇は知っている。瑞垣が隠さないからだということも知っている。それが歪だというならそれでも構わなかった。

一緒にいるのだ。ずっと一緒にいる。
憎まれて、傷つけて、殺されかけて、同じ15年をこれからずっと重ねていくのだ。
夢見るまでもない事実を噛み締めて、門脇は薄っすらと微笑んだ。瑞垣がそれを見ていることも、やはり確かめるまでもない現実だった。


(門脇と瑞垣。半分殺し合ったのよ / meisai_logic)