[ 享有ホロスコープ ]
――や、久しぶり。 5月の連休、いつもどおり朝から部活をしていた。だるいと思わないこともないけれど、野球をしている以上は休みなんてないに等しいことはわかっていたから何も言わない。ところが、雨が降って急遽解散。誰もいない家に走って帰って風呂に入って、久しぶりの休日。さて、何をしようか。と思っていたそのときに鳴ったチャイム。 なんだなんだ、セールスだったらずいぶんご苦労なことだ。と思って開けたドアの先。思いもよらぬ、こともないけれどいまここにいるにはまるでふさわしくない人間。 瑞垣が、ずぶ濡れでたっていた。 とりあえず、と玄関に招き入れると、瑞垣は羽織っていた薄手のパーカーを脱いで絞る。滴り落ちた水滴の量。脱水したほうが早そうだった。 「今平気?海音寺」 「平気って…何が」 「これから出かけたり、今彼女いたりしないかってこと」 「そんなこと気にするならなんでお前は連絡のひとつもいれずに…」 「ははは、いやーするつもりだったんだけどさ、携帯忘れてさあ」 何がおかしいのか、けらけらと笑う瑞垣にタオルを放り投げて、何か暖かいものでも淹れようとお湯を沸かしに行く。勝手知ったる他人の家、とばかりに入り込んできた瑞垣は、それでも濡れたまま座り込んだりはせずに、台所まで来て俺の手元を覗き込んだ。 その横顔を睨み付けて。 「せめて傘くらい買って来い!駅にもその辺にもたくさんあったやろ、コンビニ」 「んーー…歩いてきたから、駅は通ってねえんだよ」 あとコンビニとかは…見たけど、こんだけ濡れてると入りづらいやん? いやいやいや、濡れる前に買えよ。と突っ込みを入れたかったけれど、突っ込むべきところは他にもあったので放っておくことにする。 「歩いて、て…横手からか?」 「うん」 けろりとした顔で。 確かに歩こうとすれば歩けない距離ではないし、瑞垣にしてみれば軽いことだろう。だから普段なら驚きはしない。だがこの土砂降りの中、傘もささず、財布ひとつだけ持ったような状態でするべきことではないと思う。 「ばっ…バカだろお前?!ちょっとこっちこい、それ全部脱げ!」 「エエーー。一希くんたら俺を脱がせてどうするつもり!」 「どうもしねえよ!!着替えろっつってんだよ!」 なんだよもうつまんねーなあ、顔赤くするとかどうとかすればええのに、 なんて呟きながらタオルをかぶってついてくる。階段を上ってすぐ、俺の部屋。 呆けたように突っ立っている瑞垣に着替えを投げつけよう…として、ここで脱がれるのはそれはそれで迷惑だと思う。ので、また階段を下りて洗面所まで。瑞垣にしては珍しく、大人しくついてくる。 「だいたいなあ、雨じゃなかったら俺は今頃ここにいなかったんだぞ?ちゃんとわかっとるんか?」 もそもそと服を脱ぐ瑞垣を見るともなしに眺めながら、洗濯の準備(というか洗濯機の中に入っていた服を出して瑞垣の服だけ脱水する準備)をする。 「うーん、ていうか雨が降ったから お前いるかと思って」 「…は」 「振ってなかったらこなかった」 「ちょっと待て、お前俺に会うためにこっちにきたんじゃねえの?」 「違うよ、適当に歩いてたらいつのまにか雨で、それでも歩いてたらなんかお前んちだっただけ」 「…はあ?」 ちょっと待て。と、俺の服を着ようとしていた瑞垣の顔をよく見る。青かった。 ちょっと待て。と、青い顔した瑞垣の腕をつかむ。冷たいのに熱かった。 お前、…お前、何時間歩いてた?尋ねると、よくわかんねえけどあんま早くない朝からという返事。雨が降り出したのは12時。今は午後2時。 「待て、やっぱ着る前に風呂はいれ」 「ふろー??」 「さっき俺も入ったとこだから。沸いてるから」 「いいよ悪いし」 「いいから入れ」 それでも渋る瑞垣を半ば強引に風呂場へと放り込んだ。一瞬湯につかって、これでええやろとあがろうとする瑞垣を押さえつけて、沈める。ぬるい、という瑞垣の言葉には『追い炊き』を押してやった。 そのままなんとなく監視するような形で風呂場に居座る。 「確実に風邪引くぞ、お前」 「頭痛いような気はする」 「お前バカか?帰れよ、ここになんて来ないで」 「別にええかなー、おもうて」 「何が」 「なにもかもが」 風邪を引くのもその辺で倒れてのたれ死ぬのもそのままずっと歩いてるのも、全部どうでもいいかなー、思うて。でも結局寒くなってここにきちゃったんだけど。 ちゃぷ、とお湯がゆれる。 「瑞垣、なんかあったんか?」 「なんか、て?」 「だから何か。お前おかしいぞちょっと」 「…ちょっと?」 「…はっきり言えば相当」 何もなければこんなところへ来るはずがない。わかっていた、でもわからない顔をしていた。わかりたくないんだほんとうは。こんな風にここへ来られるのは鬱陶しいと、思っていたいのに。 「おかしいかな」 「おかしい」 もう一度おかしいかな、と不思議そうに呟いて、立てたひざの上に顎を乗せた。顔の中までお湯につかる形になって、ちゃんと息ができるのか心配になる。ぶくぶく、と湯の中で息を吐き出して泡を作る。いくつもいくつも、何度も何度も。不思議そうな顔で。 しばらくしてから顔を上げてため息のような長い息をもうひとつ。そして、俺の顔は見ずに。 「んーー…ん。ちょっと、やられちゃった?」 「…は?」 「だから、やられちゃった」 「何を」 「何って…ナニ?」 「誰に」 「門脇」 「…帰ってきとるんかアレは」 「ゴールデンウィークだからねえ」 「それくらいで休める様な部活じゃねえんじゃねえのか」 「んー、そうなんやけど。なんか1日だけ?開いたから、って、昨日いきなり来てさっき帰ってった」 「なんじゃそれ、」 それじゃまるでヤリ逃げ。 零れそうになった言葉をあわてて押し留める。俺が言っていい言葉じゃない。 さっき、と言ったけれど。そう遅くもない時間からその辺をうろついていたという瑞垣の話からすればもうかなり前のことなんだろう。追いかけて殴ることはできないくらい、遠くへ。 同情する気にはならなかったのはたぶん、それが無理やりでも確実に強姦ではないからだと思う。ほんとうに逃げる気なら瑞垣にはそれができた。はずだ。体格差も筋力も全て越えたところに瑞垣はいるのだから。門脇にとって瑞垣はそういう存在だから。 だから、瑞垣にとっても門脇はそういう存在なんだろう。 そのあとでどうしてここに来る気になったのかは知らない。 「ええよ」 「何、が」 「言ってええよ。別に気にしないから」 「…俺が気にするんだよ」 「そっか」 そうだよなあー。 呟いて、また膝に顔を埋める。浴槽のふちに投げ出された手首に、よく見るとうっすらと赤い痕が残っていて、もしかして縛られたのか、なんて勝手なことを考えた。他に痕はないようなのが門脇らしいと思う。みえないところは傷ついているのかもしれないがそれは俺にはわからない。肉体的にも、精神的にも。 「…やさしーなあ、海音寺はー」 「優しいんじゃねえよ」 「じゃあ、甘い?」 「違う」 「んーー?」 瑞垣は反らしていた目を俺に向ける。柔らかい髪が目にかかる形で顔にはり付いていたので、おもわず指で直してしまった。目を閉じてそれを受け入れてから瑞垣は言った。 「じゃあ俺が人でなしってことでいいかな」 間違ってはいないだろうけれど。 ちゃぷん、と水滴がはねる。瑞垣が浴槽を出ようとするので、先に外に出ようと向きを変えると、待って、という声がした。何を?また向きを変えると、浴槽をまたいだ形で瑞垣が俺を見ていた。 「そこにいて」 「ああ?」 「ちょっと、俺が出てもちょっとだけそこにいて」 「なんで」 意味がわからなくて、瑞垣のいつものわけのわからないわがままだろうと高をくくって、返事を待たずに風呂場を出ようとする。と、瑞垣が俺の手をつかんだ。服が濡れるんだけど。いや別にソレはどうでもいいんだけど。 「風呂ん中で、じゃ ベタすぎて泣けない」 ぎゅう、と。困ったような顔で瑞垣が俺の腕を握る。半分だけ湯から出た姿。一番体に悪いんじゃないのか。俺も困ったように瑞垣を見た。そんなことを言われても。長く思えた時間はやっぱり一瞬だったんだろう。瑞垣が俺の手を離す。 「なんてな」 へらりと笑って、着替えるの見られんのはずかしーからそこにいてー、なんて。 さっき俺の前で裸になったのに、今裸でそこにいるのに、何がどう恥ずかしいというのかと思う。 どっちも冗談なんだろうけれど、でもそういうこともあるかもしれないので俺は黙って頷いた。音を立てて閉まる扉、俺は今笑っているんだろうか。水蒸気だらけの浴室の中で途方にくれた。このまま瑞垣がどこかへ行ってしまっても、俺にはわからないだろう。そしてたぶん俺はなんとも思わないんだろう。 瑞垣に比べて、とても汚い思考を持っているような気がしてなんだか俺のほうが泣きたくなった。瑞垣の言うとおり、ベタすぎてそれはできなかったけれど。 「もういいよー」 声とともに開いた扉の向こう側で瑞垣は笑っていた。 俺の服一式を身に着けて、ちょっとゆるいとかなんとか。その割りにすそは短いようなところがちょっと癪に障ったけれど、笑っていたからそれはもういい。 盗み見るように顔を見たけれど、結局泣いたのかどうかはよくわからなかった。 (海音寺と瑞垣。ひとでなしの恋 / meisai_logic) ▲ |