[ エンタルピー≠エントロピー ]



雪を踏みしめて歩いていた。積もったばかりの軽い粉雪と重く湿った根雪とに交互に足を取られてなかなか思うようには進めない。隣を行く千早も、真白になった毛皮を震わせて時折困ったように鳴いた。本日付で配属される部下の引き取りなんてそれこそ誰かに任せてしまえばよいものを、どうでもいいことだからと自分で請け負ってしまったのが敗因だ。誰に負けたつもりもないが強いて言うなら自分にだろうか。はあ、ともう何度目か分からないため息を吐き出して千早の毛を軽く梳いた。擦り寄ってくる体温に少しだけ安堵して歩き続ける。と、不意に千早が喉を鳴らすのをやめて向き直った。連られて顔を上げると、そこにいたのは千早より一回り大きな剣牙虎と、

「先輩?」

一年ぶりに会った後輩は、一年前と何も変わらない顔で新城に笑いかけた。攣られるように笑い返しながら、ああたぶんこれは笑えていないんだろうとぼんやり考える。なぜここにいるのだろう。こんな、何の進展もないような場所に。そういえば慌しく手続きをしただけで肝心の名前も何も確認していなかったことを思い出す。上との繋がりが希薄な新城に対してそうしたことを知らせる相手がいるはずもなく、こんなところで無様に見詰め合っている訳にも行かない。
正直なところこんな場所に配属されること自体これから先が目に見えているのでこんな形では会いたくなかったのだが、この後輩の進路は新城との関わりに起因しないとも言えないので黙って迎え入れるだけだ。疑わしきは罰せよということだろうか、と後輩には悟らせぬようにほんの少しだけ眉を顰める。世界がどう動こうと指して興味はないがこの後輩がどうなるかは大いに気にかかるところだ。できることなら自分になどもう関わらない方が良いと新城は思っている。有意義なことなど何もないと充分な根拠を持って提示することもできるだろう。けれども彼はもうここにいるので理想論は語るだけ無駄なことだと結論付けて新城は思考を放棄した。
そう、後輩−西田はここにいるのだ。

「お久しぶりです」
「ああ。また、会うとは」
「ええ?自分は先輩に会えるのを結構楽しみにしてきたんですけど」
「自分」
「…僕は楽しみにしてきたんですけど」
「僕がいない間は自分で通していたのか」
「先輩みたいに要領よくなかったんで…」

僕で通そうとしたら指導教官に殴られるし!模擬訓練では上官にも殴られるし!終いには警告出されるし!大変でしたー。
情けないうえに能天気な声で話す西田はやはり一年前のままで、三年前の新城がそうした人間にどんな根回しをしたのか知らないということは幸せなことだと思う。理由はどうあれ汚れた部分はあまり知られたくないものだ。見えないからこその信頼というものがあることを知っている。それはともかく、とさりげなく論点をずらして西田に声をかけた。

「とりあえず部隊の駐屯地まで案内しよう」
「お願いします」

頭を下げる姿は少しだけ緩衝じみている。何も変わらないものはないということだろう。けれども大筋で西田は西田のままなので一年前と同じように接すればいいのだと思う。変わらないものなど存在しないが変えたくないものは存在するのだ。そうこうしている内にも猫たちは挨拶を終えたらしい。満足したように側へと帰ってきた千早を撫でながらゆっくりと踵を返した。

「真白ですねえ」
「別に雪などそう珍しいものじゃないだろう」
「や、この量はかなり珍しいと思いますけど」
「すぐ見慣れるさ」
「先輩は感動が薄いんだからー」

吐く息も白く凍る空気の中で西田の声は良く通る。誰の声でも同じだろうかと考え西田だからだと結論付けた。聞く気がなければどれだけ澄んでいても雑音と同じことである。だからつまり、新城自身の声はあまり良く届かない。全ては膜一つ隔てたように曖昧な輪郭の中に沈むだけだ。つまるところ新城は自分自身にさして興味がないのだろう。自己探求はそれなりに興味深いと思うがそれ以外の感情は持ち合わせていない。あくまで他者との隔絶は完璧な癖にそれ以上のことを求めようとはしないのだ。それを矛盾と感じるかどうかは新城自信の精神状態にかかっている。そうして、それは常に最低なのだ。

「どのくらい時間がかかりますか」
「何に?」
「この雪が解けるまでに」
「…三ヵ月」
「そんなに?!」
「根雪が深いからな」
「えー、…えー。韻鉄が白猫になっちゃうなー」
「元々白銀になるだろう」
「そういうことじゃなくて」
「そんなことをいうなら千早などとっくに真白だろう」
「千早は銀でもきれいですよ」
「当然だ」

さらりと流すと、一瞬の間をおいて西田は弾けるように笑いだした。不可解な行動にはあらゆる意味で慣れているがこれはどうなのだろう。寒さでおかしくなったのかもしれない。とりあえずと傍観を決め込んでしばらく待っていると、どうにか笑いを収めた西田が涙を拭きながら新城を見つめる。その目付きがどうにも気味が悪かった。

「よかった」
「何がだ」
「先輩が相変わらず千早大好きだから」
「…悪いか」
「いいえ。一年、…先輩のいない一年は長かったので」
「それがどうした」
「全然知らない先輩だったら嫌だなあと思っていただけです」

よかった、本当によかった。
笑みを残した口調で繰り返す。気味の悪い目つきは何かと思えば照れ隠しなのだろう。彼なりの。だが新城にとって変わらないことはそう意味のあることでもないので西田の感情は今ひとつ理解できない。今ここで変わらずにいることを確認できたとして、それが何になるだろう。次の瞬間にはもう別の場所にいてもおかしくはないのだ。なぜなら。

「…僕と君がこの先も一緒にいることなどありえないと思わないか?」
「どうしてですか」
「僕は上層部に嫌われているからな。僕の得になるような人間をいつまでも隣にいさせるとは思わない」
「僕はあなたの味方ですか」
「違うのか?」
「違い…ませんけど」

あなたがそんな風に思っているなんてことは知りませんでした。
強張った顔から同じく硬い声が聞こえて思わず新城は笑い出しそうになる。先輩があなたになった。味方だと思っている人間にすらそう思われていないのかと、自分はそんなにも信用の置けない人間だろうか。きっとそうなのだろう。おそらくそれなりの理解者であるだろう西田ですらこうなのだ、通り一遍付き合っただけの人間が敵意を持つのは当然だなと新城は思う。そのことに対してさほど抵抗を感じたりはしない。興味のない人間になら好かれようと嫌われようと構いはしないのだ。
そうして、興味のある人間が自分をどう思っていようとも構わないのだ。新城がどう思っているかが重要なのであり、新城をどう思っているかはさして意味を持たない。結局のところ他者の心理というものは新城にとって何の障害にもなりはしないということだ。こちらの邪魔にならないのなら誰が何を考えて何をしようとどうでも良い。
思考を飛ばしていると西田がおずおずと口を切った。

「せ、んぱいは」
「何だ」
「僕が来るの、嫌でしたか」
「嫌も何も先ほどまで来るのが君だということすら知らなかった」
「えええ?」
「本当に直前に資料を渡されてな。これからの手続きにかかりきりで肝心の中身をあまり良く見ていなかったんだ」
「えー…僕の胸の高鳴りは一体」
「気味が悪いがサプライズだったとでも思えばいいんじゃないか」
「先輩相手に?」
「僕相手に」

考え込む西田の顔を見ている。実際また会えるとは思っていなかった。それもこんな形では、絶対に。西田は優秀で柔軟な人間だったからだ。一年しか知らない新城にはっきりしたことはいえないがそれでも上から圧力を受けるような人間ではなかった…はずだ。彼自身の評価だけでは。となるとやはり自分が原因だろうか、と新城はまた眉を顰める。普段が鬼のような仏頂面なのでそう変わりはしない。ただ西田には分かるのかもしれなかった。
たった一年、近くにいただけで。

「先輩」
「うん」
「驚きました?」
「心から」
「…じゃあいいや」
「何が?」

何でも良いんです、と一人で結論付けて西田はまた笑った。そうして今度は気味の悪くない目つきでまた新城を視る。見るのではなく視ていた。

「先輩」
「うん?」
「僕はできる限りずっと側にいますから」
「はあ」
「先輩が嫌になっても僕が嫌になってもできる限りはずっと一緒にいます」
「それは君が決めることではないんじゃないか」
「ええ、だからできる限り」

それは、つまりどういうことなのだろうか。強い約束のようにも聞こえるしそうでもないようにも取れる。三月もすれば解けてしまう深雪のようだ。どうにも脆いくせにいつまでも絡み付いて、そのくせ呆気なく消えてしまう。なんにせよ降られたほうには良い迷惑だと新城は軽くため息を吐いた。けれども不愉快ではない。できもしないことを吹聴するより力量を見極めようとする姿勢の方が新城は好みだ。もちろん西田はそれを知っているが、新城が知っていることも西田は知っているので同じことだと思っている。つまり全ては曖昧なまま。

「西田」
「はい」
「一年前に止めたところからはじめようか」
「はい」

それがどういう意味なのかは発した新城にも良く分からなかったが、良く通る声はあくまで静謐だった。西田には分かっているのだろうと新城は思う。早く消えてしまえばいいと思いながら、それでも根雪を踏みしめてふたりで跡を残した。


(西田少尉と新城直衛。解けてしまうもの / 20061229)