( 全ては僕の死因のために )



この感情に名前をつけるとしたら憎悪だ。憎しみであり嫌悪であり心の底から恨んでいる。それは確かに整合性のある理由を持つくせにどこまでも逆恨みに近く、だからこそ俺はどうしようもなくなってこんなことをしている。詰られることも殴られることも拒まれることも否定されることも一切なく、ただ菅に受け入れられた事実は浅ましいほど気持ちが好くて止まる場所が見つからない。まるで抵抗もせず俺に組み敷かれた上官ー新城直衛の肢体を見下ろしながらずっとそんなことを考えていた。
何の生産性もないただの行為を終えて、互いに黙ったまま衣服を身につける。抵抗を、期待していたのだ。何もかも鷹揚に受け入れるこの人が嫌悪に顔を歪めて俺を見る姿を想像した。何もかもを見据えているようなその目が、その瞬間だけは俺だけを見て何も考えられなくなれば良いと思って、いたのに。

「さて、それで」

自己嫌悪と忌避感に苛まれながら唇を噛み締めていると、押し倒してから始めてこの人の声がして弾かれたように顔を上げる。いつもどおり抑揚の乏しい静かな声だった。

「楽しかったのか、君は」
「いいえ。でも貴方が不愉快ならそれで結構です」
「そうか、それは残念だな。気の毒に」
「何、」
「僕は大いに愉しかった」

なんでもないことのようにさらりと言ってのけた。そうしてにやりと、大きく口の端を曲げて笑う。嗤う。哂う。嘲笑われているようだと思った。思わず目を見開いてしまって、ああそれではさらにこの人の罠にはまるだけだと慌てて冷静を装う。悦ばせてどうするというのだ。妙に慣れているとは思ったが、そんなことに何の意味があるのだろう。取り繕う外面など本当葉も存在しないのだが、それでもそれだけは譲れなかった。なんでもないような顔をしたこのひとはなんでもないような顔をして俺を見て、「ああ血が出ている」なんて呟いて俺の口の端をごく自然に拭う。なんでもないような顔をしたこの人を前にして、動けない俺はなんでもないような顔をすることができない。
そうしてこの人は笑っているのだ。

(笑うな笑うな笑うな)

必死で念じながらなけなしの冷静さと敵対心を振り絞ってせいぜい高飛車に振舞ってみる。本当はもうこんなことに意味はないと、俺は知っているのだ。認めてしまえば良いのに。俺はこの人に敵いはしないのだ、適いもしないし叶いもしない。最初からしっていて、途中から認められなくなった。何の意味もないことを知りながらそれでも俺は、

「俺はあの人の…西田少尉の代わりですか」
「まるで見当外れだな。君は僕の直接の後輩でもなければ剣虎兵でもない、ただの少尉だ。つまらない意地を張ってこんなことまでしてしまうようなかわいそうな人間だろう」
「…はっ」

この人に同情されるなんて最低だ。多分それがこの人のポーズに過ぎないのだろうということも、そしてそれは意図する必要すらないほど計算しつくされた行動だということも。最初から最後までこの人の手駒であるのならできるだけ意に沿わぬ形をとりたいのに。憎まれることすら赦されずにどうして俺はここにいるのだろう。ここでこんなことを言わなければならないのだろう。

「第一アレの代わりなどいるわけがないよ」
「ああ、そうですか」
「無論それは君であっても同じことだがね」

無感動に発せられた言葉に不覚にも息が詰まった。
何、
何を、
そんな口で、顔で、目で、心で、どうして貴方が俺にそんなことをいうの。
何、そんな言葉少しも嬉しくない。嬉しいと思える間にこうなってしまいたかった。
けれどもその時はそんなことまるで考えていなかったのできっと俺は何もできやしなかっただろう。特別な存在など在りはしないのだ。希望も絶望も目のこの人に打ち砕かれたのだから。生きていくしかないのだ。この人の前で死ぬまで生きていかなくてはならないのだ。
まるで呪だ。

「それにしても、身体は温まったが腹が減ったな」

まあ今は喰えるものがあるだけマシか。
呟く背中を穴が開くほど睨みつけながらもうどうしたらいいのかと考える。
この人の  生い立ちなんて知らない。幸せに生きてきたようには見えないが不幸面もしていない。いつだって傲岸不遜に笑いながら人を食ったような態度をとるだけだ。その意図は諮るまでもなく最初から最後まですべて生きるためだというのだからこちらには口を挟む隙もない。正しいのだ、新城直衛という人は戦場においてあまりにも正しい。それが欺瞞であっても、純然たる理論と実践の上に築かれてしまえば抗うことなどできなしないのだ。そこに惹かれてしまいそうになるから恐ろしいのだと今はそう思う。今は思っている。達観すら赦そうとしないこの人に俺は何を求めればいいのだろうか。この人の、この世界と俺に対する干渉はおそらく緩衝に近いものなのだろう。そんなことが、どうしてそんなに巧い。

(何も残そうとはしないくせに)

どうしてここにいるんだ。そうしてこんなところで俺に抱かれたりするんだ。どうせこれからも何もないような顔をして、何もなかったことにはしないんだろう。卑怯だと俺が言える義理ではないが、自己嫌悪も過ぎればただの歪みでしかない。この感情がただの憎悪に過ぎないように。一筋ですら在れない心にそれ以外縋るものなど見つかるはずもなかった。

「漆原」
「なん、ですか」
「次もあるのか?」
「…嫌です」
「はは、そうだろうな」

だから、
笑うなと言って

(言ってはいないのだった)

それ以前もそれ以後も何も変わらず俺の名を呼ぶこの人が無性に憎かった。
この人なんて生きていれば良い。この地獄のような場所でそれでも笑っているなんて、この人はもうずっとここで生きていればいいのだ。いつまでも笑いながら必死で生き延びて、惨めにもがいていれば良いのに。なんでもないような顔をして、俺が生きていた頃を何でもなかったことにはしなければ良い。これは呪だ、死に至らない呪をかけた。
命を懸けても良いから、叶え。

上機嫌な横顔を眺めながらこの人の前で死にたいと心から思った。


(漆原少尉と新城直衛。死に至る病 / 20061221)