[ イプシロン−デルタ ]



頬に触れる空気の冷たさで目が覚めた。意識が覚醒しきるまでしばらくとろとろと微睡む感覚がすきで、できればずっとこうしていたいと思う。が、無情にもそれはあっという間に消え去り、覚醒しきらない頭で至極残念がってみた。もちろん心の中で。
適度に温まった布団から抜け出すのは至難の業だったが、その場にとどまる意味も意義もそう見出せはしなかったのでのろのろと起き出して内着を羽織る。緩慢ではあったが静かとはいいがたい動きに、隣にいた西田も薄っすらと目を開いたけれど、まだいいよと告げると、ゆるゆると夢に戻っていった。手早く火鉢に炭をおこして細く窓を開く。今日も随分よい天気だった。

そこまでしてさてと考える。千早に会いに行こうか、それともどこかへ出かけようか。しばらく逡巡してから、結局どちらでもなく読み止しの本を手に取った。そっとベッドのはしに腰掛けてページを繰る。数頁辿ったところで、後ろから伸びてきた手に内着の裾が掴まれた。

「先輩」
「うん」

頁から目を離さずに返事をすると、不満げな手が腰に巻きつく。最初はすきにさせていたが、声と共にだんだん強くなるそれに閉口して少しだけ振り返った。特に用もないくせに、なんだというのだ。西田は、布団に包まったままでこちらを見上げてくる。蓑虫のようなその姿に、これも冬眠するのだろうかなんて愚にもつかないことを考えた。されても困るのに。

「先輩、本好きですよね」
「適当に読む分にはね」
「何か僕にも貸してくれますか」
「好きなのを持っていけばいい」

と、部屋の隅に積み上げてある山を指差す。読んでしまったものについては基本的に読み返すことはないし、読み返すものについてはまた買ってもいいと思っている。新城にとって本というのはそのくらいのものだ。

「どれなら僕が好きそうですか?」
「適当に読んでいるものだから人に進められるものなど何もないよ」

答えながら新城は思う。
自分、とよほどのことがない限り口にしない新城は、だから自分の下にいる者にもそれを強要したりはしない。勿論それが通じるのは新城だけであるから、慣れさせてしまうことが良いとは思わない。けれども、それがわかっている人間ならば改めてかしこまらせる必要はないと思っている。今のところそれをするのは西田だけなのだが。
これから先、増えていけばいいと、思うときもあれば思わないときもある。実際のところ部下などそうほしくはないのだ。有能な上役がいるのなら、およそ楽に生きていきやすい。が、悲しむべきは有能で有益な人間というのはあまりにも少ないということだ。
自分でしたほうがまだましだという事例にぶつかるたびに、世の無常さを嘆きたくなる。本当はそんなことを考えもせずに生きていけたら幸せだと、新城自身が一番知っているからだ。まあつまりはどのように転ぼうともなるようにしかならないものだ、と結論付けてまた手元に視線を落とした。

「…何読んでるんですか、先輩は」
「黄金比率とかどうとか」
「へー」
「神は数学者か?なんて書いてあるな」
「へえー……何の本ですか」
「数学なんじゃないか」
「面白いですか?」
「別に」

別に面白くないんだ…でも読んでるんだ?なんて呟きを耳の奥で聞いている。本は読むもの、それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。面白いものもあれば面白くないものもあって当然だろうと新城は思っている。読めるものであればどちらでも構わないのだ。そして、読めるときに読めればいいのだ、とも。

「先輩ー」
「西田」

その本、と何かを言いかけた西田を遮って名を呼ぶ。

「はい?」
「つまり暇なのか、君は」
「…えーと」

先輩がいるから別に暇というわけでは、でもそろそろ布団の中も飽きてきましたし、でもそうすると僕がここにいる理由がなくなって、だからまだこの中にいたいんですけど先輩は本を読んでいて、あ、勿論それが悪いというわけではないんですよ。なんて、およそ言い訳めいたことを淀みなく理路整然と述べられて少し面白くなった。別に構わないのだが、西田はこういうことがとてもうまいと思う。自分を悪く思わせずに人に罪悪感を抱かせることが。たとえそれが新城には意味がないことであっても、この人格形成には新城の影響もあるので、教育の賜物だなどとろくでもないことを考えた。勿論そんなことはかけらも顔に出さず言う。

「腹が減らないか」
「減りました」
「蕎麦でも食いに行こうか」
「え、でも先輩、本は?」
「なに」

いいながら、その辺に落ちていた紙を栞代わりに挟みこんで本を閉じる。なかなか有意義な本であるとは思うが、生きている人間との付き合いに勝るものはやはりないのだ。有益な、つまり自分が興味を持てる相手になら本などにはまるで及ばないほどの、知識以上のものを与えてもらえる。

「こんなものはただの暇つぶしだよ」

唇を歪めるように笑いかけて手を伸ばすと、まるで当たり前のように西田の手が差し出されて上出来だと思う。気まぐれに猫を手懐けたような気分だ。勿論、たとえ気まぐれだったとしても手を離すつもりはない。何かを手に入れたことがないから、何も逃したくないのかもしれなかった。

ふたりで立ち上がった拍子に空気が揺れて、軽く身震いする。
窓から流れる清浄な空気と軽く立ち上る灰の香りが相まって、ああ冬の匂いだと漠然と思った。


(新城直衛と西田。まだ尉官に着く前の日常 / 20061212)