[ スローダウン、スローダウン ]



(彼らはひどく曖昧な世界の中で腐敗しかけた果実のようにゆるゆると沈みかけている )

それはある意味制裁だった。聖祭ではなく、断罪でもなく、そこにあったものは純然たる上位者としての行為。
奇声を上げて向かってくる最後の刃を無感動に受け流し、上胴を銃剣でなぎ払う。嫌な手応えとともに鮮血が噴出し、踏み荒らされた氷雪を不規則に染め上げた。ぐにゃりと崩れ落ちた体を避けて息を吐く。一連の流れ、そのすべてが機械的だった。
同じように相手を引き裂き終えて近づいてきた千早の額を揉んで、毛皮に散った血痕をいくらか掃ってやる。すでに乾き始めてこびりついたそれらは、ぱらぱらと無機質な音を立てて落ちた。後で洗ってやらなければな、とそれだけは少し有機質に考えてみる。
にゃあにゃあと甘えた声を出す押し倒されないように踏みとどまって堪えていると、先輩、と弾んだ声がかかった。ぐるぐると千早以外の猫の声もして、彼女の関心が少しばかりそれる。その隙を見計らって振り返ると、同じように薄汚れた西田と愛猫の韻鉄が見えた。

「お疲れ様です、あとはそれを積んで一緒に焼けばおしまいです」

言いながら、今殺したばかりの死体を笑顔で指す。新城は西田がはじめて人を殺したときのことも覚えていて、その動揺した姿も覚えているので、こうした感覚は麻痺していくものなのだなと思いながら鷹揚に頷いた。西田以下の兵員が駆け寄って、それを運んでいく。歪んだ足跡の上にぱたぱたと血痕が散っていった。

やがて漂ってきた、明らかに肉を焼く匂いを感じないように、正確に言えばそれを空腹と結び付けてしまわないように、どちらからともなくふたりと二匹でその場を離れる。もちろんあまり遠くに行くわけではないが、せめて乱れた足跡と血痕がそう目立たなくなるくらいの距離へ。さくさくと雪を踏みしめて、四通りの足跡を軌跡として残していく。さくさくさくさく、その場にはおよそ似つかわしくないほど軽快な音を立てて。
あてもなく進みながら、西田は大きく息を吐いた。溜息とも深呼吸ともつかないような大きくて軽い息、そして新城を見て澄ました顔で言う。

「毎日毎日、こんなことばかりしているとさすがに飽きてきますよねえ」
「西田少尉、それは任務に対してあまりに不誠実な発言だが?」
「やりたくないって言ってるわけじゃないですからまだいいんじゃないですか?」

形ばかりに不敬を嗜めると、飄々とした声で巻き返された。士官として良くない態度ではあるが、結局のところここにいるのは新城と西田だけであるので、それ以上は何もいわないことにして小さく肩をすくめる。肯定の意思を表したつもりだった。それを明確に掴んで、西田はさらに言う。

「結局のところ僕達のしていることって軍の役務とも言えないような雑用に過ぎないわけですしねー…いつまでこういうことをしていればいいんでしょうね?」
「さあな、我々は軍の中枢に毛嫌いされているからな。戦でも起これば変わるかもしれないが」
「戦争ですか?それも嫌ですけど」
「嫌なのか?」

軍人として、士官としての道を選んだ以上戦争とは好機である。うまく生き残れば英雄となるし、死んだところでそれは栄誉に他ならない。どちらに転んでも家名を上げる機会ではある。それを、嫌だと?新城の非難めいた視線を感じたのだろう、西田は軽く笑って「だって怖いですし」と言った。

「怖い」
「怖いですよ。戦争になったら死ぬかもしれないんですよ。どうしても分かり合えない人間と刃を交えて、弾を受けて、死んでしまったらそこで踏みつけられて忘れ去られてしまうかもしれないんですよ」
「それは今も同じじゃないのか」
「死ぬかもしれないのは同じですが、忘れられはしないでしょう?戦果で死んだその他大勢じゃなくて、任務中に不幸にも殉職を遂げた少尉だったら、馬鹿だなあとかそういうことでも覚えていてもらえる」
「そんなものか?」
「僕はそう思うんですけどね」

なあ韻鉄?韻鉄ーーー?
西田は肯定を求めるように彼の愛猫に声をかけた。が、彼は生憎千早にご執心で、彼の主人に尻を向けて何事か訴えている。その姿を見て、ふたりで少し噴出した。猫、一打ちで人を殺せる剣牙虎も、飼い主にとってはただ可愛いだけの猫だ。

「お前は千早がそばにいればどうでもいいのか」
「韻鉄ならまあ娶せてやってもいいな、なかなかの美猫ではあるし」
「千早にはかないませんけどね」
「当然だ」
「手入れも良いんですね。こんなに血に濡れてもまだ手触りが柔らかい」
「千早だからな」
「先輩それ答えになってませんよー」

苦笑交じりに返された声を生真面目な顔で受け流した。千早は素晴らしい猫だ、飼い主の贔屓目を抜かしてもそう思う。そして西田もそれを理解しているので、苦笑以外の行動は何も起こさなかった。手持ち無沙汰に千早をなで、気持ちよさそうに喉を鳴らす様子を微笑ましく見つめる。と、同じように韻鉄を構っていた西田が顔を上げて言った。

「先輩は」
「なんだ」
「怖くはないのですか。もしも戦争が起きたとしたら」
「怖いさ。怖いだろうよ。殺されそうになれば、恐らく人の何倍も怯えて逃げ惑うことになるだろうな」
「それでも、戦争が嫌じゃない?」
「覚えているのが戦禍だからな」

東洲の悲劇を言外に滲ませると、さすがに西田も軽口は叩かなかった。手の内は先にある程度明かしてしまったほうが虚偽を含ませやすいな、と新城はひそかに定義づける。実際のところそう多くのことを覚えているわけではなく、蓮乃と過ごした記憶はむしろ人生の中でも輝かしい部類に入る時間なのだが、もちろん余計なことは口に出さずにいた。

「僕はきっと何者にも祝福を受けずに終わるんだろうな」
「いいじゃないですか。先輩、別にそんなの欲しいと思わないでしょう」

黙ってしまった西田に得体の知れない衝動を覚えて、新城は珍しく自嘲めいたことを冗談のように漏らした。けれどもそれが真実であることは新城自体が一番よく分かっており、西田にもそれは伝わったと思ったのだが。事も無げに言ってのける西田に胡乱気な目を向けると、予測よりよほど真剣な眼差しとぶつかって少しばかり焦る。なんだその目は、顔は、すべては。折につけ、この人当たりの良い部下の計り知れない感情に触れるたび新城は焦燥を覚える。冗談めかした本気に、同じように答えられてしまっては。

「欲しくないでしょう?」
「…欲しくない、けれど」

重ねて告げる、まるで言明のような問いかけに曖昧に頷いた。あって悪いものだとは思わないが、授けられないのだとしたら施されてまで手に入れたいものでもない。同情から生まれた祝福など偽善と欺瞞以外の何物でもないと理解するからだ。不明瞭な新城の発言などはまるで聞こえなくとも問題はないというように西田は続けて言う。

「僕は先輩に何もあげられないので、それを聞いて安心しました」
「欲しいといった覚えもないが」
「ええ。でもたとえそうでないとしても何もできないので、先輩が何かを欲しがっていたらだめなんです」

まるで謎かけのようだ、と新城は思う。西田が何を考えているのかさっぱり理解できない。顔に浮かぶのは明らかに安堵と柔らかな微笑であるのに、声音はあくまで冷たい。ふと、舞い落ちる立花を音声化すればこのように聞こえるのではないかと思った。柔らかく、けれども確かに冷たい。それは矛盾のない二律背反だ。

「…それはまた、随分と、」

随分と、なんだろう。何か的確な言葉があったような気がするのだが、それを口に出すとまた何か別のものが音を立てて崩れるような気がする。結局「随分おかしなことを言う」と無難な線でまとめておいた。不自然な静寂の中、雪を踏みしめる乾いた音だけが随分大きく響いていた。


ざくざくざくざくざくざくざくざく、ざく


凍りついた木立の間から薄く日が差し込んで、ふたりの行先を白く輝かせていたのだけれど。ふたりがそこに残すのは足跡と足音、すぐに消えるだけの事象のみだ。いっそのこと真っ暗になってしまえばいいのにと新城は毒吐いてみる。夜道ならば雪明りの意味も生まれるからだ。これだけ乱反射されては、眩しいどころか目が眩むような気分になる。実際のところ、眩んでいたのはそれだけが理由ではないのだが。立花のような西田の音がする。


「先輩は…」
「うん」
「ずっとひとりで生きていってくださいね?」
「…お前は?」
「僕は先輩と生きていけないし、先輩もそれを望まないから」
「それは」
「違いますか?」
「違わないけれど」
「僕と生きていけないなら、ほかの誰とも一緒に生きていかないでください」

にこりと、それはもうまるで、花のように。一瞬で散っていく花のように、美しく笑う。咲けば咲くほど死期は近づいていくというのに、けれども、だからこそそんなにも輝いて。新城はそのとき、漠然とではあるがこれは長く生きられないのではないかと感じた。だってこんなにも、儚い。

「先輩がそれさえ覚えていてくれるなら、僕はもう一生先輩と会えなくなっても構いませんよ」

雪を
真新しい雪を踏みにじり、血で染め、火で溶かして、それでもまた雪は降るからと、西田は言うのだろうか。背負ったすべて、あるいは背負うことを許されないすべてを放棄していっても良いと?確かにこれは祝福などではないだろう、それは呪いだ。優しければ優しいほど、酷薄で残酷な呪縛。守るかどうかが重要なのではない。守ろうとも守れずとも、どちらにせよ囚われていることになるのだ。
嗚呼、なんて、寂しい。


「ほんとうはただ先輩の近くにいられればそれが一番いいんですけどね」


その言葉も寂しい、寂しい。叶わないことが端から認識されている事項について希望を述べることは、叶わないからと諦めてしまわない事以上に空しくてやるせなくてもどかしい。さらに寂しいことは、新城が西田にそれを伝えるすべを持たないことだ。新城には心中を曝け出すような真似はどうしてもできないし、たとえそれが好ましい相手であっても許容範囲はさして変わらないのだった。むしろ飾り立てる量が著しく減少する分、その表現能力は普段よりもっと劣るのかもしれなかった。告げられない言葉を噛み締めながら、いつの間にか降り出した立花を頬に感じる。そろそろ引き返すべきだった。

西田はそれ以上何も言わない。新城にも何もいえない。寂しいと、ただそれだけをいっそ清清しい気分で噛み締めながら、早くも掠れ始めた足跡を逆に辿ってふたりで帰った。

(これから何度違う冬が廻ってきても、降りしきる雪すら薄汚く染め上げるこの世界を忘れることはないだろう)


(新城と西田。人殺しとしての普遍的な精神異常 / 20061130)