[夜が優しい日]


夜 が 優 し い 日



小十郎が普段より少しばかり早く帰宅すると、昨日帰ってきたばかりの佐助の靴がなかった。一応部屋に入ってみても、佐助の姿はない。昨日の今日でもう行ってしまったのだろうか、と小十郎は傾げた。普段佐助は一週間、短くても3、4日は小十郎の家に居続ける。少なくとも今まではそうだった。買い物か何かだろうかとも考えてみたが、バイクの鍵もなかったのでこれはやはり行ってしまったのだろうと小十郎は結論付けた。

佐助が、ここにいない。

そこまで考えたところでなんとなくぼんやりしてしまって、小十郎は頭を振る。佐助の気まぐれは今に始まったことではない。こんなことにショックを受けていても仕方がない。実際のところ佐助が居ないことよりも、佐助が居ないことに少しでもショックを受けたという事実のほうが耐えられない、と小十郎は思う。
そんなことを思う関係ではないのだ。最初から、小十郎と佐助の間には何もなかった。佐助が転がり込んできてから、そう短くもない時間がたった今でも、佐助と小十郎の関係につける名前が見つからない。同居、居候、ルームシェア、どれもこれも正しいようでその実しっくりこない。後輩でも友人でも家族でもない、それでも、気が付けば近くに居る。

(…なんだってんだ)

部屋着に着替えながら、小十郎はひとりで眉を潜めた。恐らく佐助がいればなにそのすげー顔、と笑っただろう。元からアレは暇さえあれば小十郎を見て笑っている節がある。悪い意味ではない、ところが手に負えないと小十郎は思い、思ったことにまた眉を潜める。何を考えているのだろうか。そんなつもりではなかったのに。
ふう、と溜めていた息を吐き出して、とにかく飯にしようと小十郎はリビングを後にした。

そうして、出来上がったふたりぶんの食事を前にして、やってしまった、と小十郎は思う。何も考えずに手を動かしていると、こういうことがあるのだ。冷蔵庫には昨日の今日だというのにきれいに食材が詰まっていた。おそらく佐助が昨日詰め込んだのだろう野菜と、土産だといって帰ってきた生ハム(どこまで行ってきたんだ)、そうしたものを使った食卓は彩りも美しい。佐助が家に居る間に小十郎が食事を作る機会はとても少ないので、妙に張り切ってしまったような、気がする。これを一人で食うのか。
やっていられない、と小十郎は深く溜め息をついた。あまりにも虚しすぎる。ここまで大きな存在だっただろうか、あの赤毛頭は。

考え込んでいても拉致があかない。せっかくだから佐助が土産にした地酒でも開けるか、と小十郎が腰を上げたのと、玄関の扉が勢いよく開いたのは同時だった。

「た、っだいま!」
「…おかえり」

息を切らせて飛び込んできた佐助に、半ば反射的に答える。玄関とリビングは廊下を通して丸見えなので、小十郎は立ち上がった姿のまま佐助と向き合うことになった。表情には出ないが、小十郎はとても驚いた。もう、行ってしまったのではなかったのか。はあはあと肩で息をしながら佐助は言った。

「間に、あうかと、っもったんだけど、」
「何にだ」
「…あんたが、帰ってくる前に」

苦しそうに下を向いていた顔を上げて佐助が言ったので、小十郎は思わず、ぐ、と息を呑んでしまった。なんだこいつは。ちょっと気持ち悪いんじゃないのか、いやさっきの俺も相当だ。幸いなことに佐助は気づかない様子で、途中で渋滞してたんだ、とへらりと眉を下げて笑った。小十郎の方からも力が抜けて、そりゃ大変だったなとなんでもないように答えることが出来た。

「ご飯作ってくれたんだ。ごめんね」
「別に」

ぺたぺたと廊下を進んでくる佐助を見ながら小十郎は短く答える。二人分作ってよかった。たまにはどうでもいい誤解も、失敗もあるものだ。豪勢な食卓を見て佐助は一瞬目を見開き、なんかすごいねと呟く。ああまあなと小十郎は適当に答えて椅子を引き寄せた。

「茄子使っちまったんだが、これお前が買ってきたんだよな?」

何に使うつもりだったんだ?と小十郎が尋ねると、ミートソースかけてオーブンで焼く予定だった、と佐助は言った。それもうまそうだな、と言えば今度作るねと柔らかく笑う。今日のところは挟み上げである。

「どこに行ってたんだ?」

実家か?それとも大学か?腰を下ろした佐助にそれとなく尋ねる。帰ってきたときに行くような場所がそれほどたくさんあるとは思えなかったからだが、佐助の口から出たのは予想外の言葉だった。

「神保町」
「は」
「と、皇居と東京駅」
「はあ?」

東京駅、ということは神田の神保町なわけだ。それに皇居。皇居だと?
なんでまたいきなり、と小十郎が半ば呆れて尋ねると、天気良かったから、と歯切れよく佐助は答えた。お前は天気が良かったら不意に思い立って高速を二時間以上も走るのか?と問いたかったけれど、返事は分かりきっているのでやめておく。そういう人間だから、佐助は今ここにいる。

「なんか今週古書フェアやってるって聞いたから、それを見に行ったんだ」
「へえ…何か欲しいものでもあったのか」
「ないけど。でも古本ていいじゃん?本がいいんだけどさ、でも…昔の全集とか、これ完璧手作りじゃね?っていうような装丁の金文字とかさあ、見てるだけで楽しいんだよ」

あと本の匂いね!インクと紙と手ズレの痕!たまんない!!と佐助は身を捩りながら言う。そういえばこいつは大学の図書館も好きだったな、と小十郎は思い返す。小十郎が研究室にいないとき、つまり授業時間は図書館のほうに入り浸っていたらしい。そのくせ自分ではあまり持ち込まない辺り、佐助という人間は良く分からないと小十郎は思った。

「しばらく見て廻って、腹が減ったからその辺のリストランテで肉食って、」
「なんで神保町で肉だ」
「うん?いいにおいだったから」

当然のような顔で佐助は笑う。いやそういう問題じゃなくて、古本なんか見た後は…蕎麦とか和食とか、そんなもんじゃねえかと小十郎が言えば、何食ったっていいじゃん腹減ってんだし、と佐助は事も無げに言ってのけた。万事がこの調子であるので小十郎は引き下がることにして、先ほどの気になる件について尋ねる。

「皇居は」
「あ、うん、神保町を出て真っ直ぐ歩いてたらなんか木立が見えたのね」

そろそろ疲れたし、あそこで一休みしようかなー、って思ったら、見覚えのあるお堀がぐるってあるじゃん。えっ、これって、あっれ?え?皇居??っておもったらほんっとにそうでさ。人が入っていくのが見えたから恐る恐る川を渡ったら無料で入れるみたいでさあぁ。御苑?ていうの。
俺皇居なんて歩いて行ったのも入ったのも初めてだったよ、と佐助が言うので、それが普通なんじゃねえのかと小十郎は返した。少なくとも、小十郎の周りにはいない。

「それで平川門から入ったんだけどさあ、なんかぞわっとするから何かなーって思ったらあれって不浄門なんだねえ」

なかで死んだ人とか、あそこから運び出したんだって中に書いてあった。確かに鋲?がいっぱい打ってあって見た目から気持ち悪かったんだけどねえ、なんかヤだから大手門から出てきた。
あれってどこまで平将門が作ったの?石積は家康?と尋ねる佐助にさあな、と小十郎はそっけなく返す。もともと答えを期待したのではない佐助はなんか気になるねー今度調べておこうかなあ、と呟いた。皇居、ひいては皇室なんて資料が多すぎて分からなくなるだろうと思ったが、小十郎は黙っておいた。どうせそのうち忘れてしまうのだ。小十郎のほうが。

「あとねえ、少し歩いたらお香のいい香りがした」
「そういえば毎日誰かの命日だとか聞いたことがあるな」
「あーそっか、あれお線香?日本が出来たときから万世一系だもんねえ。そう考えるとすごいね」

あそこで、もう何人くらい死んでるんだろうね。
皇居は確か江戸城の跡地である。江戸幕府が出来たのが1603年でそれからずっとそこには将軍と天皇が住んできたわけで、となるとその歴代の人数を考えれば…と、思わず小十郎は計算しかけたが、良く考えればそれ以外にも人間はたくさん居たのだ。死んだ人間も、恐らく数え切れないほどだろう。考えること自体が無意味であることに気づいて小十郎は思考を放棄した。

「あとやたらきれいなとんぼが飛んでた。緑と黄色なの。やっぱりああいうのも皇室だからなのかなあ」
「関係ねえだろ」
「えー………まあいいや、これお土産。皇居で買った絵葉書」

佐助が差し出したのはやたらに尾の長い鶏の絵と、なにやら赤い花の散った二種類の絵葉書だった。受取ってから、これはひょっとして国宝なんかのコピーか、と小十郎は思う。日本画はよくわからない。

「…目が怖ェんだが」
「日本画の鳥って怖いよねえ…。でもきれいだったから…あっ、そういえば俺皇居の外堀で青鷺見ちゃったよ!亀狙ってたよ」

能天気な佐助の声を聞きながら、それはお前の気のせいだと突っ込みを入れる。こんな風に、出先で起きたなんでもない事を話すようになったのはここ最近のことだ。もちろん土産話などはあったが、小十郎としては飾らない言葉のほうが好ましいと思う。
あとは東京駅の前の広い芝生でちょっと座って、東京駅の外観を始めてみて帰ってきた、というところで話が終わったのを見計らい、佐助に小皿を手渡した。

「喋ってねえでほら、食えよ」
「あ、ありがとー」

佐助は頂きます、と手を合わせて箸を手に取った。それから真っ先に茄子のはさみ揚げを口に入れて、旨い、と佐助は笑う。そりゃあ良かったと小十郎が言えば、もごもごと茄子を咀嚼してから佐助は口を開いた。

「あんた料理上手だよねえ」
「お前もな」
「俺は食わないと体力持たないしさあ。あんた別に、作ってくれる人だってたくさんいるだろうし」

俺がいないときならいくらだって来てもらえるでしょ、と佐助は笑う。小十郎はその頭をぺしりとたたいてそんな暇のある奴はいねえよといった。事実、佐助以外に自由にこの部屋を出入りしている人間はいない。

「てめえくらいだ、そんな物好きは」
「…ふーん」

どことなく佐助の声の色が変わったので顔を上げてみるが、小十郎には佐助の顔色までは分からない。いつだって笑っているので、能天気以外に見えたこともない。それだけではない、と思うがそう見せたいのならそれでいいと小十郎は思っている。だから小十郎は黙って飯に専念した。しばらくしてから佐助がねえ、というのでまた顔を上げると、佐助はどこか困ったような顔で笑って、あのさあ、と言った。

「片倉さんさあ、いつか、」
「あん?」
「…んー………うん…」
「なんだよ」
「ん、ごめんやっぱりなんでもない。ご飯お代わりしていいー?」
「…すきにしろよ」

妙に歯切れの悪い佐助を、それでも追求したりはせずに開放してやるとありがとー、と佐助は席を立った。その後姿を見るともなしに見ながら、佐助の言葉の続きを考える。俺が、いつか。俺のいつか。それがどうしたのだろうか。佐助はそれをどうかしたいのだろうか。
いつか、などという曖昧な言葉に想いを乗せることができるほど若くはさいと小十郎は思う。佐助はまだそれが出来るのだろうか。4歳年下の、よく考えてみてもまるで意味の分からない…同居人、ということにしておこうか。
飯茶碗に山ほどの飯を盛って帰ってきた佐助の志向などどれほど考えても分かりはしなかったけれど、とりあえず佐助が目の前で笑っているので小十郎も小さく笑っておいた。


[ 夜が優しい日 / 現代パラレル / 小十郎と佐助 ]

同居1〜2年目。もうすっかり慣れた頃ですが未だに距離は分からないふたり。
佐助の行動は実体験です このあいだ行ってきました皇居。薮蚊に刺されました。