明 日 に と っ て は 遠 す ぎ て 忘 れ て し ま い そ う な 今 日 の こ と それは小十郎が大学を卒業し、仕事にも慣れてきた5月初めの土曜日だった。 これといった予定もなく、買うだけ買って積み上げてある本でも読もうかと思っていた矢先にチャイムが鳴った。うるせえな休日にセールスかご苦労なことで、と特に感慨もなくドアを開ける。と、目の前に見覚えのある赤毛頭が立っていた。 小十郎は、へらりと笑って口を開きかけたそれを見なかったことにして扉を閉める。鍵をかけてチェーンを繋いで、ついでにスコープまで掌で塞ぐ。よし、これで大丈夫だ、俺は何も見ていないと小十郎は自分に言い聞かせた。 けれども、もちろんそれで赤毛頭の存在が消えるわけもなく、初めに何度かチャイムが鳴らされ次にそれほど激しくはなく扉を叩く音がする。か−たーくーらーさーんー入ーれーて、と間延びした声が聞こえた。うるせえ名前を呼ぶな滅多に使わないくせに、と小十郎は思う。鍵を閉める音は聞こえただろうに、それでも居座る赤毛の神経の図太さに少しばかり感心した。 数分経ったところで近所迷惑だと思い、諦めて扉を開く。まるで堪えた様子のない赤毛頭―佐助は、小十郎の目の前で入れてくれるの?と言いながらへらりと笑った。 いい部屋だねー、ここはもう長いの?などと細かい質問をする佐助に、学生時代からずっとここだと返しながらリビングへ通す。学生用なのにワンルームではないことが気に入って借りた部屋だった。建物自体は古かったが、基礎がしっかりしているためそれほど気にはならなかった。もちろんそんなことまで佐助に告げることはなかったが。 ソファの端に腰掛けた佐助の前に薄く入れたコーヒーを置く。うっすいのがすきなんだよねえ、と研究室でへらへら笑っている姿を覚えていたからだ。大学卒業の2ヶ月程前、だから実質4ヵ月前に会ったのが最後で、だから下手をすればそれが見納めになるだろうと、思っていたのに。佐助は相変わらず小十郎の前に緩んだ顔を晒している。大学では見慣れたはずのその顔が、小十郎の部屋にあることが妙だった。 きょろきょろと周りを眺めていた佐助は、コーヒーを一口啜ってから、あ、と呟いて肩から提げていた布鞄を持ち上げる。しばらくごそごそと中を探ってから、これお土産、と佐助が差し出したのは細長い布包みだった。 「…なんだこりゃ」 「塗り箸。俺が塗ったんだよー」 「はあん…」 包みには佐助の言ったとおり黒塗りの箸が二膳入っていて、相変わらず芸達者な奴だと思う。佐助はたまにこういうものを作って帰ってくる。小十郎にその善し悪しは分からないが、およそ手遊びの延長で作れるようなものではないような気がする。大きなものは敬遠するが、箸ならば場所をとることもない。手土産としてはまあ許容範囲内だろうと、そこまで考えたところで小十郎はふと首を傾げた。二膳? 当然ながら小十郎の部屋にいるのは小十郎一人きりである。これは何のつもりだ、と尋ねれば夫婦箸なんだよと佐助は答えた。めおと。小十郎の日常生活では聞きなれぬ言葉である。小十郎はなにかとても嫌な予感がした。佐助は相変わらず頭の軽そうな顔で笑っている。その笑い顔を振り払うように、小十郎は佐助をにらみつけた。 「…で、俺はてめえに俺の住所なんざ教えた覚えはねえんだがな」 「そうだよねえ、俺もあんたに訊いた覚えはないなあ」 「犯罪めいた理由だったら放り出すぞ」 「え、や、別に悪いことしたわけじゃなくてさ、あのせんせーが教えてくれたの」 あの先生。考えるまでもなく、それは佐助が入り浸っていた研究室の主であり小十郎を卒業させた指導教授しかいない。伊達先生、申し訳ありませんが個人情報にはもう少し気を使ってください、とここにはいない教授に恨み言を連ねながら小十郎は薄いコーヒーを啜りこむ。 悪気は、あるのだろう。小十郎がこの年下の男を好きでも嫌いでもなかったことは知っているはずだ。どちらかといえば嫌いではないほうに比重が傾いていたかもしれないが、どちらにしても小十郎は他人と深く関わりたがる人間ではない。 勿論全て分かった上でしているのだろう。何か面白そうだったから、と悪びれもせずに笑う教授の顔が小十郎の脳裏に浮かんだ。 「それで何の用だ」 「泊めてくんないかなーと思って」 「嫌だ」 嫌な予感は良く当たるものだと小十郎は思った。佐助の言葉を耳にした瞬間、脳より先に脊髄が反応して否定が口をついた気がする。脊髄反射か?耳を通している以上それは人体として有得ない、とくだらないことを思った。佐助は情けない顔でへらりと笑う。 「即答?つうか一言?しかも駄目とか無理じゃなくて嫌?」 「実家に帰れ」 「えー」 「ええ、じゃねえよ。赤の他人のところに転がり込んでる場合か」 小十郎の反論は常識として正しいはずだ。でかい図体で(小十郎よりは一回り小さいけれど)他人に甘えている場合ではない。けれども佐助は子供のように頬を膨らませ、駄々をこねるように机に顎を乗せた。その姿勢で佐助は言う。 「だってさあー、家帰ってももう俺の部屋ないんだもん」 「はぁ?」 「何年か前に引き払って弟にあげた。アレももういい加減二人部屋とか嫌だろうし、かといって兄貴んとこ転がり込むのもアレだしー」 「…」 いつか聞いた話によれば、佐助には兄と弟と姉がひとりいるらしい。小十郎は別に聞きたかったわけでもないが、話し声がすればそれを聞きながすくらいの事はしなくもない。研究室で誰かが発した、いまどき4人兄弟なんて珍しい、という言葉が耳に付いたせいもある。曖昧な表現ではあるがとにかく印象には残っていたのだろう。 そのことが妙に腹立たしくて、胸の中で舌打ちしてから小十郎は佐助に尋ねた。 「普段はどうしてたんだ、今までは」 「あんたの大学にいたじゃん。昼間研究室で寝かしてもらって夜バイトしてた」 「これからもいりゃいいじゃねえか」 「んー実はさあ、あそこって俺の家から近いって言ったじゃん」 「そうだな」 「小学校とか中学校とか、そーゆーときの同級生がちょっと入ってきてさあ。さすがに部外者は居辛い?みたいな」 俺は高校中退だしねえ、といっそ清々しいくらいの顔で佐助は笑う。 「てめえを入れる部屋なんざねえよ」 「床でいいよ。廊下でもキッチンでも、最悪玄関でも」 「そんな踏みそうな場所にいられても困る」 「踏んでもいいけど」 「蹴飛ばしても目を覚まさなかったような人間を心配してるわけじゃねえよ」 ただ俺の脚とここの床の心配をしているだけだと小十郎が言い放てば、佐助はそっかあそうだよねえとへらへらと笑った。薄いコーヒーを啜りこんで、それじゃあ仕方ないなあと佐助は呟く。それから、休日に邪魔してごめんねコーヒーありがとうまたいつかね。へらり、とまだ笑いながら立ち上がった佐助の腕を、ほとんど受動的に掴んだ。なあに、と見下ろされた佐助の視線に小十郎自身が戸惑う。何のつもりだ、この手は。 とりあえず座れ、と小十郎が言えば、佐助はおとなしくソファへと舞い戻った。 「それで、これからどうする気だ」 「どうしよっかなあ」 困ったなあと紡ぎながら、佐助の言葉にも表情にも悲壮感はまるでない。小十郎は大きく溜め息をついた。佐助の言動は、全てが本気なのかそうではないのかどうかさっぱり分からない。笑うばかりのこいつが悪いと小十郎は思う。空になった佐助のカップに冷めかけたコーヒーを注ぐ。ありがとー、とやはり佐助は笑った。 「お前、なんで俺のところに来た」 「んん?今、あんた以上に俺と親しい人って思いつかなかったから」 「金がないのか?カプセルホテルとかそういうところじゃ駄目なのか」 「ないこともないけど、そんなにあるわけじゃないし、この町にいるのにホテル住まいって言うのもなんかおかしい気がしてさあ」 「ずっと旅して廻ればいいじゃねえか」 「うん、…そーだねえ。でもなんか………たまに、帰ってきたくなる」 佐助は少しばかり柔らかく笑って、温くて薄いコーヒーを啜る。 帰ってくるというならば、こんなところにくるのはやはり場違いではないかと小十郎は思う。1ヶ月か2ヶ月に数日、小十郎と佐助の関係はそれだけだ。そんな関係が一番親しいというのなら、佐助の人付き合いは小十郎より拙いことになる。そんなことはない筈だと、小十郎は曖昧な記憶を辿った。佐助は研究室を出入りする誰とも気軽に話していた覚えがある。小十郎よりよっぽど大学に馴染んでいた。佐助の態度は軽薄ではあれど、希薄ではなかったと小十郎は思う。 「お前ならいくらでも伝手がありそうだがな」 「なくもないけどさあ……なんかいきなり押しかけて泊めてくれって気持ち悪くね?なかなか出来ないよねえ」 「…俺はいいのかよ」 「うーん?んー………いいんじゃないかな?」 「てめえ」 「だって俺のこと許容してくれるのって実際あんたくらいだし」 佐助は不可解なことを言ってへらりと笑った。小十郎には佐助のことがまるで理解できない。する必要がないと思っていた。好きでも嫌いでもない、1ヶ月か2ヶ月に数日当たり前のようにそこに転がっているものだと認識していたからだ。へらりと笑う赤毛頭、それだけだった。それが小十郎と佐助の三年間である。 それでも佐助は、誰よりも口数が少なかった小十郎のところにやってきた。 「…あー…」 「なあに」 「何でもねえよ」 なんでもない、が少しばかり腹立たしいだけである。小十郎はがりがりと乱暴に頭を掻いた。流されてしまいそうである。もともと気楽な一人住まいだった。けれども、ひとりがふたりに増えたところで、小十郎にはそう気にならないに決まっている。特に、それが佐助ならば。1ヶ月か2ヶ月に数日だと、小十郎は思う。そう思ってしまえば、もう話は終わったも当然だった。はああ、と大きくため息をつけば、小十郎の目の前で佐助が小さく身を引いたのが分かる。 それにほんの少し苛立ち、苛立った自分に対してまた腹が立った。もうどうしようもないと小十郎は思う。思ってしまえば、あとは腹を括るだけだった。 小十郎は、少しばかり身構えた佐助をうんざりしたような目付きで見遣った。思い返せば、佐助には最初からカタギのようには見えないと笑われた記憶がある。どうでもいいことばかり覚えているものだと自嘲めいたことを思ってから、小十郎は佐助に おい、と声をかけた。 「何、」 「わかった」 「え?」 「泊めてやる」 「え」 わかった、といった小十郎の言葉に、佐助は随分と驚いた顔をした。これだけ見れば図々しく初めて入る家に押しかけてきた人間の態度とも思えない。こういうところが理解できないと小十郎は思う。思い通りになったなら、喜べばいいのではないだろうか。 「泊めてやる。てめえはどうせまたすぐにどこかへ行くんだろう」 「え、うん、そうだけど、いいの、ほんとに?」 「別に断る理由もねえ事に気づいたんだよ」 「へ、ええー…そんなんでいいの」 「うるせえな。今すぐ路頭に迷いたいのか?」 「すいません俺が悪かったです泊めてください」 お願いします、と佐助が頭を下げる。どこまでも明るい色の髪が小十郎の視界を埋めて、これはそれなりに悪くない色だと思った。とりあえず、としばらくしてから顔を上げた佐助に声をかける。 「ここに住むからには、一応ルールを守れ」 「うん。なあに?」 「女は連れ込むな、ここにいる間は俺の言うことを聞け、朝起きて夜は寝ろ」 「はーい、質問」 「なんだ」 「ひとりエッチはおっけーですかあ?」 「俺の知らねえところでやれ」 「はーい」 佐助は大真面目な顔で厳かに返事を返した。これは本気だろうか、と小十郎は暫く考え、どうでも良いと結論付ける。寝る場所はここでいいか、とソファを差して尋ねると、横になれるスペースがあればどこでもかまわないと佐助は答えた。ゆったりとしたサイズのソファは、規格外の小十郎にとっては狭かったが標準体型の佐助ならば十分だろう。掛け布団…は、タオルケットで平気だろうか。今が夏に近くてよかったと小十郎は思う。 「で、お前家事は出来るのか」 「料理はできるよ。それなりに。汚すよりは洗うのがすきだし」 「ここにいる間は」 「全部俺がすればいいのかね」 「折半でいい」 「でもあんた仕事あるんでしょ?」 「どうせ一人暮らしだ」 「やる、っつうんだから任せとけばいいじゃない」 寝るところがあるのって幸せなんだよ、と佐助はふわふわと笑った。小十郎としては佐助の家事の腕を疑っているのだが、確かにしなくて済むのならばそれはそれでありがたい。とりあえず明日一日任せてから考えるか、と思考を飛ばしていると、佐助はまた布鞄を漁り始めた。まだ土産か、と思ったが佐助が取り出したのは財布である。小十郎が胡乱な目付きで眺めていれば、佐助は中身を数えて、紙幣を何枚か差し出した。万札だった。 「なんだ」 「んーと、とりあえず家賃ね」 「別にいらねえよ」 「うーん、でも世話になるしさあ?俺、金使わねえし」 それほど多いわけでもないが、少なくもない金額だった。なんにせよ、定職にも付いていない人間から金を受け取る気にはならない。小十郎がそう告げると、家賃とか光熱費とかそういうもんだと思って取っておいて?と佐助は軽く言う。それでもまだ小十郎が渋ると、じゃあ就職祝いと卒業祝いも含めて、と佐助は笑った。ご祝儀を受取り損なうのは縁起が悪いよ、とも重ねる。 そこまで言われてしまえば、小十郎にも断る術は見つからなかった。悪いな、と言えばいえいえお世話になりますと佐助は答える。 「じゃあ、」 「うん」 「広くもない場所だが、好きにすごせ」 「はい、じゃあふつつかものですがよろしくお願いします」 佐助はそう言って、テーブルに三つ指を付いて丁寧に頭を下げた。それはなにか違うんじゃねえかと小十郎は思ったが、目に入る赤毛はやはり悪くなかったので何も言わなかった。それから佐助は、そのままの体制でべしゃりとテーブルに突っ伏した。 「あー…よかったあ…」 「なんだよ」 「駄目元だったから。なんか、気ィ抜けた」 「行き当たりばったりで生きてるからだ。せめて連絡ぐらい入れろ」 「あんたの連絡先とか俺知らない…」 「ああ…」 そういえば携帯のアドレスも交換していなかったな、と小十郎は思う。それでよく俺の前に顔を出したな、と小十郎が言えば、会って話すのはいいんだよと佐助は答えた。何がいいのだろうか。もともとふたりでいて会話が成り立つような関係ではない、筈だ。小十郎は黙ってすっかり冷たくなったコーヒーを飲み干した。佐助はまだ潰れたままである。 この馬鹿みたいに明るい頭をした男が何をしているか小十郎は知らない。 「…おい」 「なんでしょ」 「お前はふらっといなくなって何をしてるんだ」 「バイク乗ってる」 「それは知ってる」 「んーー…とねえ、車じゃ行けねーような山とか、真夜中で誰もいないすっげー都会の真ん中とか、寺とか人とか海とか空とかそーゆーのを、見てる」 「……写真か絵でも描いてんのか?」 そうした創作活動以外に佐助の行動を示すものが見当たらなくて、小十郎は訝しげに尋ねた。そんなことをしているようには見えない。ではどういう風に見えるのかと、聞き返されても困るのだが。佐助は少し笑ってちょっと違うと言った。 「そーゆーときもあるし、そうじゃないこともあるんだよ。ただ、見たいなと思うから見に行く」 「はあん…日本だけか?」 「金があるときは外も行くけど。船とか乗ると楽しいねえ。俺海すきだし。あ、今度スリランカ行きたいなあ」 「何して金稼いでんだ」 「んーいろいろ。日雇いとかそれこそ絵とか写真とか売ったり、水道管変えたこともあるしチューナーの取り付けとか高層ビルの窓拭きなんかも楽しいよ」 「お前、」 ずっとそうして生きていく気か、と小十郎が問いかけると、佐助は分からないと言った。俺は別に何かしたくないことがあってこういう生活をしているわけではないから、と。佐助の言葉は簡潔なくせに曖昧で、上手く小十郎には届かない。けれども佐助がそれでいいのなら、小十郎にはそれ以上いうことは何もなかった。小十郎がそうか、とだけ答えれば、うんそうなんだ、と佐助は笑う。笑って、少しばかり考えた後にあともうひとつ仕事してる、と呟いた。 「なんだ」 「えー…と、たまに雑誌に文章が載る」 「は?小説か?」 「や、エッセイ…てか旅日記?みたいな。ふらふらしてるといろんな人に会うからさあ、そんな伝手で」 「どんな顔して書いてんだ」 「顔は関係ないでしょうよ」 「読んでみてえな。なんて雑誌だ、買うぞ」 「ええ?本気??」 「少しな」 「でも買うほどのもんじゃねえだろ。……んー、一応俺の記事が載る号は実家に送られてるみたいだから…発送先をここに替えればいい話だとおもうけど」 今度やっとくよ、と佐助は笑った。実家のほうはいいのかと訊けば、別に誰も読まないと思うしと佐助は言う。俺ももうずっと実家に帰ってないから、あんたんとこにある方がなにかと便利だと思うよ。佐助が本気で言っているようなので、小十郎も止めない事にした。いきなり発送先が見知らぬ男の住所に変わったら先方は驚くのではないだろうか、ということは佐助も小十郎も考えなかったらしい。 そこまで話してから、佐助は笑って小十郎の顔を見上げた。 「こんなに話したのはじめてだねえ」 なんだかんだで三年間も遊んでたのにねー、俺も話さないけどあんたも聞かなかったもんねー、と言いながら佐助はへらへらと笑う。何が楽しいのかまるで分からないが、確かに小十郎のほうから佐助にこれだけ話し掛けたのは初めてだった。それほど興味がないわけではないのかもしれない、と小十郎は思う。それからふと思い立って佐助の顔を覗き込んだ。 「てめえは何か聞かねェのか?」 「何を?あんたのこと?」 「何でも構わんが」 「はーーー…うん、…またそのうち」 「あん?」 「だってそれなりのことはもう知ってるし。あんたの先生にも聞いたし」 「ああ…」 そういえばこいつは当たり障りのない会話が得意だったな、と小十郎は思い返す。 家族構成とか履修科目とか就職活動のこともいろいろ訊いたでしょ、と佐助は続けた。 「俺、あんたが内定取った日に研究室にいたんだよ。覚えてる?」 「ああ、異様に喜んでたな。お前が」 「だって嬉しいでしょう。嬉しかったでしょう?」 「まあな」 「だったら喜んだっていいじゃない」 「まあ…そうだな」 「それにねえ」 佐助は、へらりと笑う。 「あんまりいろんなこと聞くと変わっちゃうことも、あるし」 「あん?」 「なんでもないよ」 なんだ、と小十郎が問いかけても、佐助はなんでもないけどさあ、と笑うばかりである。あんた別に俺に訊いて欲しいことなんかないでしょう、と佐助は言う。確かにそれはそうなのだが、そういう話でもないような気がした。けれどもこの話はこれで終わりだとばかりに佐助が目を伏せたので、小十郎もそれ以上何も言わない。当然のように沈黙が走ったが、それは気まずい静けさではなかった。 しばらくしてから佐助が口を開く。 「ねえ」 「ああ?」 「今日、泊めてくれてありがとね」 「今日だけじゃねえんだろうが」 「うん、でも俺今日誕生日だから」 「はあ?」 「たんじょーびなの。俺今日で19歳」 「そりゃ……おめでとう」 「え」 「え、ってのはなんだ」 誕生日なら、おめでとうだろう。 小十郎がそういうと、佐助は間抜けな顔でへら、と困ったように笑った。誕生日に、おめでとう。そうだよねえ、おめでとう、だよねえ、と当然のことをぶつぶつと呟くので、少しばかり心配になった小十郎は佐助の頬を抓んだ。ますます間抜けになった佐助の顔に、お前大丈夫かと小十郎が問いかければ、ようやく佐助は正気に戻る。 「あ、ごめん…旦那以外に、言われたの久しぶりだったから」 「旦那?」 「うん、旦那…」 耳慣れぬ言葉に、小十郎は少しばかり眉を潜めた。それはどこかのバイトの雇い主だろうか。それとも旅先で知り合った大店の誰かだろうか。旦那、と呼ばれるような人間を他に思いつかない。けれども、その実どれも当てはまらないような気がしてならなかった。 それは誰だと聞き返すことも出来ず、小十郎は今日が誕生日だという佐助の顔を見つめる。おめでとうと言ってはいけなかったのだろうかも知れない、と小十郎は思う。 それくらい、佐助の口から出た『旦那』という音は特別な色をしていた。 今度こそ気まずい沈黙が落ちて、小十郎は小さく息を吐く。 「…とりあえず風呂でも入って来い」 おかしな空気を振り払うように、小十郎は佐助の顔にバスタオルを投げつけた。わぷ、と少しばかり慌てた声が聞こえ、次いですげー柔軟剤の匂いがするーと佐助は笑う。小十郎は、柔軟剤は使ってねえよとどこかのCMのような言葉を紡ぎながら、佐助を風呂場へと押しやった。『旦那』の話は極力佐助から引き出さないようにしようと小十郎は思う。少なくとも、それで沈黙は立ち消えた。 それから、佐助が風呂から上がるまでに夕飯を作ろうと小十郎もリビングを出る。まずは飯を炊いて、次に春雨を軽く茹でて適当な野菜とともに軽く炒め、豆板醤を加える。昨日サラダに使ったわかめはスープにぶち込んだ。あとは適当に冷蔵庫の中を漁るだけだ、と思ったところで風呂場から佐助の声がした。 「かたくらさんーー」 片倉さんなんか服貸してー、という間延びした声にちょっと待てと答えて火を細くした。使っていない下着とジャージを手にしたところで、下着くらいは佐助も持ってるんじゃねえかと小十郎は思う。が、年中旅をしている割に佐助の荷物はあまりに少ないし、他人の荷物を触るのは気が退けた。結局のところ手にした下着を持って、脱衣所に入る。一応ここに置いておくぞ、と浴室内に声を掛ければ、ありがとーと少し篭った佐助の声がした。 実のところ、小十郎には今まで部屋に入り浸るほど親密な関係の人間がいなかった。飲みに来てそのまま潰れてしまった人間や、無理やり押しかけてきた女がいるといえばいるが、どれも小十郎にとっては気に留めるほどの出来事ではない。それなのに、今日始めてやって来た佐助の気配が既に漂い始めたことが、小十郎には酷く新鮮だった。 これからこの部屋にこいつの荷物が増えるんだろうな、と特に感慨もなく小十郎は考える。男二人で同居というのはよく考えればシュールだったが、それについても小十郎は特に気にならなかった。なにしろ3年間も置物のように思っていた人間である。今更生活に侵食してこようと、小十郎にとってさして問題はないのだった。 今のところは、今日佐助が持ってきた塗りの箸が二膳である。まあ、これでとりあえず飯は食えるなと小十郎は思った。 [ 明日にとっては遠すぎて忘れてしまいそうな今日のこと / 現代パラレル / 小十郎と佐助 ] 小十郎(22歳)と佐助(19歳)、同居始めました。 1週間後に出て行きますが1ヵ月後に帰ってきます。その繰り返しで最初につながります。 兄弟たくさんいるみたいですねえこの佐助。変な設定増えましたねー…。実際出てこないんでどうでもいい。 無駄に長くなりましたが特に中身はありません。そんなネタがたくさん あります。…楽しいです。 |