[そしてまた夢は優しく繰り返されて]

穏やかな風が吹いていた。
長く続いていた戦も一段落して、疲弊した兵を休めるためにも暫く騒ぎはないという。幸村は静かに書を紐解き、佐助は傍らで忍具を改めている。それは久々に訪れた日常であった。

「旦那ー」
「なんだ」
「今日の夕飯なんにする?」
「任せる」
「其れが一番困るんだけど」
「うむ…では、さかな」
「新鮮なの?」
「干物で」
「りょーかい」

お互いに、ぽつぽつと他愛のない話を投げ合う。
中身よりも言葉を交わしている感覚が重要だった。炎の、刃の、死臭の間から紡がれる短いやり取りの中から最善の働きを示すようなかけあいではなく、通じようと通じまいとさして意味はない応酬。
開け放した障子の向こうでの木々のざわめきと、お互いの立てるかすかな身じろぎの音だけが聞こえる。ああ、と佐助は思う。己にとって、この空気は異質なものでなければならなかった。戦忍びとして戦場に降りたあのときから、平穏などとは切り離された。はずなのに。

「……慣れちゃったねえ」
「何にだ?」
「旦那の隣」
「何を今更」

今更。今更なのかなあ、と佐助は呟く。もう、何年になるだろうか。もう少し、あと少し、これが最後と念じながら一番近くに居座り続けて。いつの間にかこの場所は終生まで続くものだと思うようになってしまった。誰にとっても良い結果はもたらさないだろうその未来を、それでも主と自分にとっては幸せだろうと無理に結論付けて。
少しばかり不思議そうなその声色にも、幸村は平然と書を捲り続ける。一度も顔を合わせぬまま、時が過ぎる。

陽が少し動いた頃を見計らい、そろそろお茶にしようか、と佐助が訊けば、それはいいなと幸村が笑う。手早くその場を片付けて、濃茶を入れ餡団子を添えて幸村の元へ運ぶ。ちなみに餡は手作りだ。幸村が喜べばいいと思いながら、昨日の晩にとろとろと濃く煮詰めた。
予想通りの笑顔で団子をほおばる顔を、自身は薄く入れた茶だけを手にしながら見つめる。綻んでなお精悍な顔は今はまだ幼さを残しているが、もう二年もすれば柔らかさが消えてしまうのだろう。そうすればきっといろんなところから浮いた話が聞こえるんだろうな、と手にした茶を啜る。佐助にとって、それは決して悪い未来ではない。

「旦那はさあ、女の子嫌いなの?」
「何だ?藪から棒に」

もごもごと団子を食いながら幸村は首を傾げた。佐助は喉に詰まらせそうだなこの人、と思いながら茶を手渡す。物を詰めたまましゃべるなということだろうと幸村は口の中の団子を飲み下し、湯飲みを置いて言った。

「別に嫌いではないが」
「でもさあ、閨なんかではすることしたら旦那のほうがでてっちゃうよねえ」
「なっ…構わんだろう、朝寝床で会うことが気恥ずかしいのだ」

武家に生まれたものの勤めとして、子を成す事の重要さは重々承知している。だから、幸村は子を成すまでの過程を厭いはしない。けれども、それから先までは耐えられないのだと幸村は言う。そこまでできてそれからができない理由が佐助にはまるで理解できないのだが、幸村には幸村なりの動機付けがあるのだろうと思った。
何を言わせる、と頬を染めて目を反らす幸村に、ああ可愛いなあと幾分親馬鹿な視線を注ぎながら、疑問が生まれた理由をぶつける。

「だって俺と寝る時は朝まで一緒にいるじゃない」
「む?…お前相手にいまさら恥も何もなかろう?」

添い寝も裸も口付けも触れ合いも、意味こそ違えど変わらずに続いていることだろうと赤面もせずに幸村は言った。実のところ意味すらもそう変わってはないのだろうと佐助は思う。過去から現在、そして恐らく未来に至るまで、ふたりの立ち位置は揺らぐことは無いのだ。
そうしたことは言動を制限する掟が無い分、佐助よりも幸村のほうがずっとわかっているのだろう。幸村の成長振りが誇らしくもあり、寂しくもあって、佐助は複雑な思いで笑った。

「はじめてあったときは変なガキだと思ったけどなあ」
「俺は天狗か狐だと思ったぞ」
「え?忍びだって紹介されてたじゃない」
「その前にあったことがあるだろう」

顔の彩りも、明細柄の忍び装束もなかったが、赤い頭で身のこなしの鋭い狐だったな。
平然と告げられて佐助は思わず絶句する。狐呼ばわりされたことを嘆いたわけではない。
幸村は、覚えていなかったはずだ。
佐助が幸村にはじめて引き合わされたのは、幸村が6つのときだった。既に槍の使い手として、そして燻る炎を天恵として内に抱えていた主は、明るくはあれど少しばかり鬱屈した手に負えない子供だった。自由奔放であり、天真爛漫でありながら、心の奥まで入り込みはせず、また入り込ませはしない、言ってしまえばおかしな子供だったのだ。

けれども、本当に最初に会ったのは草深い山奥でだった。忍びの里近くに避暑に来ていた真田家と、それを遠くから眺めていた自分と。恐らくは家人が目を離したすきに転がってきのだろう、その小さな体を受け止めたときの柔らかさを、佐助は未だに覚えている。

6つになった幸村はそのことを覚えていなかった。
だからあれは、佐助だけの大切な思い出だった、………はずだった。

「えーーー、えー…、俺、あの時結構ショックだったんだけど」

あんなに笑ってたちっちゃいのが3年くらいでおかしな子供になっててさあ、俺は最初に笑いかけられたら笑おうと思って待ってたのに顔こわばらせるしさあ…と、当時の鬱憤を矢継ぎ早に告げれば、幸村は少しばかり顔を曇らせて言う。

「あのころは某とていろいろあったのだ」
「ん、あとから聞いたけどね」
「それに、あのときの奔放な狐と、俺に頭を下げた忍びとが結びつくわけなかろう。何年もたっていたのだし」
「それは俺の立場としてさあ…………」
「分かっている。だから思い出しただろう」

主と忍びという立場を切り離し、容姿と言動を照らし合わせ、幼い目には幻術のように映った体術を繋ぎ合わせて。

「あとから考えてみたら佐助はいつでも佐助だったのだな」

しみじみと呟いた幸村に、佐助はゆっくりと詰めていた息を吐き出した。ため息にも似たその音に、何を思ったのか幸村は手を伸ばして佐助の頬に触れる。昔と変わらない穏やかな温もりをいとしいとおもった。

「佐助」
「なんです」
「某は、女子が嫌いなわけではないが、佐助のほうが大事ではある」
「あー…そうですか」

他に言い様がなくて佐助は投げやりな返事を返す。だって、そんなことはもう知っている。これからどんな人間が現れても、幸村にとって佐助以外の存在が佐助の位置を占めることはないのだ。そしてその逆も。
同じくそれが分かっている幸村は、気のない応えに機嫌を損ねることも無く笑った。

「…旦那ー」
「なんだ」
「俺、旦那のことすきだよ」
「そうか。某もだ」
「そっか」
「それがどうかしたのか?」
「どうもしないけど」

どこまでも穏やかな日だった。
焦がれそうな想いでもなく、狂おしいほどの熱でもない。けれどもそれは確かにそこに根付いていて、何を壊すことも巻き込むこともなく最後まで続いていくのだろう。これ以上でもこれ以下でもなく、幸村とはこのままの形であり続けたいと小さく欠伸をしながら佐助は思う。

「ねえねえ」
「んー?」
「俺のこと好き?ほんとに?」
「すきだ」

照れも衒いもない真っ直ぐな声に佐助はゆるゆると笑う。念を押すこともない、ただ聴きたいだけなのだ。自分に届く主の声が、佐助はすきだった。
それはたとえば信玄に向かう想いほど真摯ではなく、伊達政宗に向かうほど熱烈なものでもないのだけれど、佐助にとって何物にも変えがたい大切なものだ。誰でもない、佐助にだけ向かう声なのだ。

「旦那、あんこついてるよー」
「ん」
「取れてない」
「ん?」
「こっちね」
「うん」
「はいお茶」
「ありがとう、…熱い」
「え?大丈夫?」
「んむ」

言葉にならない声でも、くるくると良く変わる表情と声音、それだけで十分だ。幸村の頬についていた餡を躊躇いもなく己の口にいれて、上出来だと佐助は満足する。当たり前のような顔で茶を啜る幸村の全てが今は佐助のものだった。
やがて団子と濃茶に満足したらしい幸村は、猫のように根を細めてしなやかに伸びをする。眠くはなさそうだと結論付けてこれからを尋ねる。

「この後はどーするの、まだ本読む?」
「某も槍を磨こうと思う」
「ん、じゃあここにいるのね。何か必要なものは?」
「佐助の道具を借りる」
「うん」

刃零れを数え、目抜きを改め、飾り紐を付け替え、槍全体を磨き上げる。本来ならば幸村自身がするようなことではないが、自身が扱うものは自身で手入れしたいという幸村の想いは同じ戦を駆ける者として酌んで尚余りあるものだ。特に、幸村以外は安易に触れることができないーー朱雀や炎凰といった武器は。
それではまだ一緒に居るのだ。陽が傾くまで、このまま主従背を合わせて。…傾くまで?
佐助は少し考えてから、明日もやはり穏やかな日々であると結論付けて幸村に声をかけた。

「夜はどうしよっか」
「佐助がいい」
「うん」

佐助はゆるく応えて目を閉じた。薄く、柔らかに幸村の気配を感じる。恐らく他のどんな器官が壊れてしまっても、幸村を感じる場所だけは失くさないのだろうと佐助は思う。
たとえ、どちらかが欠けてしまってもその意味はまるで変わらないのだろうとも。
その想いに佐助は薄く笑って、深くも甘くも無い緩やかな感情を寝息のように吐き出した。





[ そしてまた夢は優しく繰り返されて / 真田主従 ]
大切で、すきで、いとしくて、何物にも変えがたくて、ここまできても恋愛感情は無い主従。
真田の家のために嫁を取ることは確実な真田とそれは当然と思っている佐助。
そうなっても何一つ変わることは無いと思っている辺りが子供と忍びの浅はかなところですね。
ほんとに何も変わらなかったら気持ち悪いなあ………わたしの中の真田主従って気持ち悪いな。