[神さまのいないところで]

「なんであんな無茶したの?」

ざっくりと開いた二の腕の傷に手荒く布を巻きつけながら佐助は呟いた。戦のあとで幸村の傷を見るとどうしても苛立ってしまう。それが勝ち戦であろうとも幸村に傷をつけたならば佐助にとってその戦は忌むべきものだ。今回は特に、佐助のいない場所で負った傷であったので。

幸村は今日の戦場で、制止する佐助を振り切って敵本陣へと真っ直ぐ駆けていった。

敵兵の数はさして問題ではなかった。けれどもそれはあくまで正面からやってくる数の話で、いくら幸村でも四方から向かってくる刃全てをかわすことはできない。ようやく佐助が追いついたときには戦意を保った敵兵はほぼ皆無であったが、幸村の腕には深い傷がついていたというわけだ。幸いなことに筋も骨も無事だったから良いものの、動脈にかかる一歩手前、出血量は相当のもので佐助は蒼白になった。
見た目より軽症だと分かってから、腕の傷でよかったと密かに息を吐いた。これが背後からの傷だったら佐助は誰にも顔向けができぬところだった。幸村自身はそんなことを気にはしないのだろうが、忍びとしては美しいままであって欲しい。

「無鉄砲とか傲岸不遜だとか散々言われてるけど 本当はそうじゃないでしょ?ひとりで突っ込んでいくなんてあんた今までなかったでしょうが」

そうなのだ。どれだけ人を斬ろうと、普段幸村が我を忘れることはない。単騎で駆け抜けていくように見えても常に佐助だけは傍に置いていた。つまるところは意識して傍に置かれなければ佐助自身に腹が立っていた、それだけといえばそれだけのことである。

「すまん、つい…」
「言いたくないなら別に良いけどね、あんたが死んで困るのはあんたじゃないんだよ。もともと少ない真田の血、加えて真田信繁のもつ付加価値なんて言われなくてもわかるでしょう。上田が滅びたらあんたのせいだからね?いくら信玄公が天下を取ったってそのお膝元で瓦解が起こったら目も当てられないんだからね」
「すまん」

けれども、それだけでは済まない何かがあるように見えるので佐助は苛立っている。
わかりきったことを滔々とまくし立てられても、幸村は顔色ひとつ変えずに謝罪だけを口にした。本当に我を忘れたのなら、もう少し文句を言うはずなのだ。叱られたこどものように頬を膨らませて、佐助の様子を伺って。それがないということは、確実に自分に非があったことを幸村が認めているというこ とだ。
理由もなく突き進んでいくような人間なら良かったのだ。理由など無くても何でもできるくせに、理由がつけば何もかも正しいと思う人間であることが怖い。
佐助は、ときどき幸村が怖い。

「…俺にも言えないようなことなの」
「え」
「いいけどね、別にいいけどね、あんたがもっと傷ついてたら俺なんてさくっとお役ごめんだったなんてこともあんたにとってはどうでもいいんだろうけどね?」
「佐助」
「あんたを、守りたいと思ってるのは俺だけじゃないんだよ。でも俺しかそばに置かないから、俺だけはそばに置いてくれたから、守られるべき存在だってことはちゃんと分かっててくれると思ってくれてたのに、」

本当は佐助には幸村のことなど何も分からないのだと思い知らされることが、怖い。

「佐助、違う、違う」
「何が違うの。説明してくれるの?」
「佐助には分からぬかも知れぬ」
「なんで?そんなにくだらないことなの」
「そうではない。そうではないのだが」

佐助にとっては下らぬこと矢も知れぬ、と前置きしてから幸村はぽつんと呟いた。

「…この前の戦」
「え?」
「戦場で、明智殿にお会いしただろう」
「………明智って」

ああ、と思い出す。明智光秀、戦国最狂と謳われる…武人と、幸村は確かに対峙した。

今考えても、あれはおよそ必然性のない戦だった。小競り合いのような戦を終えて引き上げる途中、同じくどこかへと攻め入ったあとの明智軍と鉢合わせたのだ。互いに恨みはない、ないが、敵同士である以上刃を向けぬわけには行かない。武士のしがらみとは面倒なものだと、佐助などは苦笑して大手裏剣を構えたのだ。

そうして切り結んで行った視界の先、真っ赤な幸村の背。
笑いながら双頭の鎌を振るう戦国最狂の武将は、目の前に飛び出した二槍を正確に受け止めた。が、その持ち主を幸村と見て取ると、気のない声で呟く。

「…ああ、あなたですか」

呟くと、日本一の兵、自称ではあれど誇張ではない呼び名を持つ敵将を前にして、戦国最狂は刃を下ろした。先ほどまでの笑いも狂気も形を潜めて、辺りの喧騒がまるで嘘のような空気が流れている。乾坤の一撃を振り払われた幸村は一瞬眉を潜め、けれどもそのまま斬りかかる様なことはせずに明智をにらむ。

「なんの御積りか。武器を取られよ」
「あなたと戦う気はありません」
「貴殿は某を馬鹿にし ているのか?それとも無抵抗を縦に逃げる気なのか」
「逃げる?」

最狂は首を傾げて、しばらく視線を宙に泳がせてからやはり詰まらなそうに、

「…そうですねえ。そういうことにしておきましょうか」

幸村の言葉を肯定した。
瞬間、幸村の頬が赤く染まり、二槍が音もなく明智の咽喉元に突きつけられる。怒っているのだろう。覇者を求めて魔王に反旗を翻したような人間が自分を前に去ろうとしている。あらゆる意味での強さを求める幸村にとってそれは侮辱だ。

「真意を述べられよ」
「楽しくなさそうなので」

簡潔に返ってきた答えは幸村をさらに激昂させたのだろう。槍の穂先がわずかに震えたのを、佐助はぼんやりと眺めていた。明智軍は明智光秀の周りには近寄ってこないので、戦場の喧騒の中でそこだけ景色が切り取られたようだった。
退く様子のない幸村を眺めて、明智は少し考え込む。いっそ銀に近いほどの光沢を放つ髪が、陽の光に紛れて目を眇める。どこまでも深い闇をまといながら光を放つとはどういうことなのだろう。
ややあって口を開いた明智の言葉は、今までより少しだけまともだった。

「あなたの取る行動はわたしの想定を超え ない。わたしがあなたを殺したとしても、あなたは武人としての誇りを捨てないでしょうし、わたしがあなたに殺されたとしても、あなたはわたしの存在を否定したりしないでしょう。それは、あまりに理想過ぎてつまらない」
「何が言いたいのだ」
「まともな武人と戦うことはわたしにとってまるで魅力ではないということですよ」

自分がまともではないことを言外に含ませつつ、明智は淡々と続ける。

「たとえば、…そうですね、あなたの血は絶対に赤いでしょう?」
「…明智殿の血は紫色なのか?」
「そうかもしれません」
「本当に?」
「それが真実かどうかは指して問題ではないのです。大切なのは主観としてそうあるように見えるかどうかです。あなたは、あなたの主と私の主…織田信長とに、同じ色の血が流れていると思いますか?」
「思わぬ」
「では信長公の血は赤くないと」
「そういう意味ではない」
「ええ、つまりはそういうことです」

幸村は言葉の意味を考えている。戦馬鹿ではあるがただの馬鹿ではない幸村は、言葉遊びを好かない。言葉はより簡潔に、より明確に、そうできるだけの知識と知恵があるからだ。そうして、意味のないことに時 間を割いたりも、しない。

「……では、例えば竹中殿や毛利殿となら戦う気になるということだろうか」
「あなたのまともではないという基準はその二人なのですか」
「あくまで某の中で、理を貫かぬ者を挙げてみたまでだ」
「そうですねえ…。竹中半兵衛なら、彼が一番大切にしているものを壊してから戦って見たいと思います」
「豊臣殿か」
「彼はとてもわかりやすい。恐らく豊臣より先に死ぬと思っているだろう彼が豊臣の死を前にしたとき…どんなふうに顔を歪めるのでしょうね。見てみたいものです」
「そのために、そんなことのためにあらゆる場所へ一人で往くというのか?楽しみのために、命を賭すのか」
「そのときはそれまででしょう。命を懸けるだけの価値はあります」
「それは貴殿のお考えであろう」
「ええ。わたしは、戦がとても楽しい」
「…たのしい」
「ええ」

無表情に、生真面目に言い放った明智の応えに呼応するように、

「…某もだ」

囁くように述べてから幸村が二槍を引いて、ふたりは黙ったまま視線を絡ませている。まるで見詰め合っているように見えた。佐助にはその会話がまるで理解できず、幸村が斬らないのなら いっそ俺が殺してやろうかと思ったのだけれど、どこまでも静謐な明智の姿には欠片も隙は見えず。結局どちらも血を流すことなくその対峙は幕を下ろしたのだった。

けれども、それがどうしたというのだろう。

何も変わりはしないことを経たからといって、幸村が傷つく理由にはならない。
幸村を斬らずともこれからも明智は人を斬り続けるだろうし、明智に刃を向けずとも幸村は別の誰かに二槍を振り下ろすのだ。戦うことが楽しいと言った幸村の顔が見えなかったことを、佐助は今も幸福に思っている。

少なくとも佐助には理解できない。


「明智殿は紛うことなき武人であった。歴戦の猛者であればあるほど強きものを求めるのは道理であろう。某とて、独眼竜殿と刃を交えることを思えば血湧き肉踊る」
「でも旦那は謀反なんて起こさないだろ?」
「ああ、某はお館様の天下が最上であると信じているからな。だが吾が主が彼の魔王であれば分からぬ。確かに明智殿の倫理は常軌を逸してはいるが、その手法まで誤りだとは思わぬよ」
「何で」
「明智殿が望むものは暗殺でも奇襲でもなんでもない、突然とはいえ一対一の決闘ではないか。受けて立った以上はどのよう な理由であれ戦い抜くことが道理」
「謀反でも、暇つぶしでも、楽しいという理由でも?」
「どのような理由でもだ」
「…全然わかんない」

決闘ならば全てが道理。
そういい斬られてしまえば、暗殺や奇襲しかできぬ忍びには道理など存在しないことになる。それは確かに正しいのだが、幸村が言いたいのはそういうことではないのだろう。ではどういうことなのか、佐助にはまるで理解できない。
佐助は武士では、ないのだ。

「人を人として扱おうがそうでなかろうが、最後に殺すのであれば皆同じことだろう。某が殺した人間と明智殿が殺した人間に何の違いがあろうか?」

それは含みも滲みもないまっさらなこどもの声で、だからこそ佐助は言葉に詰まる。

同じではないといいたいのだ。幸村に斬られた人間と明智が狩った人間と佐助が殺した人間とでは散り方に大きな差があるといいたい。名のある将に討ち取られるのと影ですら己のものではない忍びに刈り取られるのでは無念の度合いが違うのだということを、建前としていってしまいたい。
けれども行き着く先は同じであることを佐助は知っているのだ。
名のある将も、名もない影も、雑兵と称されるその他 大勢も、公方も百姓も死んで朽ちれば区別はできない。どれだけ大きなことを成し遂げても、どれだけ多くの罪を犯しても、どれだけきれいに生きたとしても、事実が事実として成り立つのは其れが生きている間だけだ。

「肉を裂き、血を浴びる愉悦は某も知っている。ただそれを公に認めることはしないというのが暗黙の了解であるだけだ。あの御仁はそうした自身を曝け出す事が怖くないのだな」
「やめてよ旦那、そういうの聞きたくないよ」
「だが事実だ」

言い放った幸村はどこか張り詰めていて、佐助は耳を塞ぎたくなる。
そんなことを考えないで欲しい。考えずに生きていて欲しかったのだ。

「ひとりきりで、仲間も省みず、自分自身の命さえ秤にかけることなく動かせる明智殿と、佐助に守られ、お館様を守り、自分の命すら賭す事ができぬ某との中身が同じなのだ。そう思ったら、………俺もあの御仁のようになれるのかと思ってしまった」

俺。無意識なのだろう。近頃はついぞ聞く事のなかった一人称だ。
なりたかったのだろうか。幸村は明智になりたいのだろうか。

「だから、ひとりで駆けて行ったの」
「そうだ。お主がいなくなれば某はどうなるかを 知りたかった」
「それで、こんな馬鹿みたいな怪我して」

きつく巻いた包帯を見るともなしに眺める。

「うむ。…大怪我をするのだな、佐助がいなければ。佐助がどれだけ某を助けてくれていたかがわかった。其れと同時に、某は死ぬのが怖いと思った。明智殿には必要ないかもしれないが、某にはお主が必要だ」
「…ふうん」

それ以上に出せる声が、佐助には存在しなかった。
…佐助は、実のところ幸村が消えてしまうことをさほど危惧しているわけではない。戦場で果てることは幸村にとって最大の名誉だろうし、佐助としてもそのほうが幸せだろうと思っている。
ただひとつ憂うならば幸村の危うさである。儚げなところなどまるでないくせに、息をするほどの容易さで人を斬るくせに、純粋な主義思想を前にするとその善し悪しに関わらず惹きつけられる。あらゆる矛盾を内包していきている幸村が、いつか矛盾を超えてしまうことが、佐助は怖い。怖いのだ。
だから、至極全うに戦で果てることを望んでいる。ただしそれは佐助が死んでからのことであり、だから本当の意味で幸村の死後を想定しているわけではないということに佐助は気づかない。幸村の死の瞬間まで、気づか ぬままでいるのだろう。


「今更だと…思うかもしれないが」
「うん。そうだよ。今更過ぎる」
「だから…すまぬ」
「…それは、」

何に対する謝罪なのか。
心からの疑問は小さなため息とともに飲み込んだ。恐らく幸村の真意が佐助に伝わらないように、幸村には佐助が其れを理解できないことがわからないのだろう。言葉以上にこころがたりない。誰よりも近くにいたはずなのに、差異は埋まるどころか広がるばかりである。
けれども、それを継げる言葉すら佐助は持たない。

「ほんとにそう思ってんの?」
「本当だ。もうしない。約束する」
「絶対だよ?次があったら、お館様に言いつけるからね」
「武士に二言はない!」
「旦那の二言は人よりゆるいんだよ」

冗談めかして日常へと紛れながら、とりあえず次に遭ったら明智は殺してやろうと決めた。
幸村に理解される、理由は其れで十分だ。




[神さまのいないところで / 真田主従と明智光秀 ]
明智と幸村の噛み合った会話が書きたくて、明智光秀論を作りました。
実際何もないことが明智の思想だと思うんですが 幸村にはそれがわかって佐助にはわからなそうだなと
思ったら…なんだろうこれ。明智はきっと佐助とだったら戦います。楽しそうだから。