夕暮れの薄墨の向こうから祭囃子が聞こえた。 その音にふと手を止めた佐助を、咎めるでもなく見上げた視線へとわずかに笑んで見せる。作りものではないが完璧に自然な笑いというわけでもない。こどもにはあまり辛気臭い顔を見せたくないと思う、ただそれだけの話だ。 「お祭りがあるみたいですね」 「おまつり」 「?弁丸さまはいったことありませんか?」 「ないぞ」 「ええと…元は神さまにお祈りと感謝を伝えるための儀式?なんですが」 今城下で行われているのは路上の屋台でいろいろ食べるものを売っていたり、お面とか水風船とかシャボン玉とかそういうものを売っていたり、そういうものです。 明らかに屋台の辺りで食いついてきた主に、これは本当に苦笑を浮かべる。 「いってみますか?」 もちろん今でも根底にあるものは神さまに対する祈祷なんですけどね…、と続けた台詞は弾丸のように飛び掛ってきた主の袖の中に消えた。加減を知らない力でぐいぐいと佐助の顔に抱きつきながら叫ぶ。 「いくっ!いきたい!!いこう!いますぐ!」 「いっ、ちょっ、引っ張らないでください。慌てなくても祭りは逃げませんから」 「にげるのか? !」 「や、だから逃げない…」 つうか首絞まってます絞まってますって!!ギブギブ!! どうにかこうにか主を引き剥がし、ともすれば着の身着のまま飛び出そうとする体を押さえ込んで鮮やかな朱色の浴衣を着せ付ける。生地も仕立ても良い品は負けん気の強い主の顔に良く映えた。 「ん、いいですよ」 自身もそれなりに装って(有体にいれば少々顔を変えて)夜の街へと繰り出した。 きらきらと光る提燈にそこここに灯された蝋燭、賑やかな人々のざわめき。 夜は静かなものだと思っていた主にとって祭りの喧騒は衝撃的だったようで、普段の騒がしさが嘘のように押し黙ってその光を見ていた。佐助のほうも口が半開きじゃないだけましかと思って待っている。しばらくしてから詰めていたらしい息を吐き出して、佐助に向かって振り返りざまに言った。 「どこにいっていいのだ?どうすればいいのだ」 「お小遣いもらってきましたからどこでもいいですよー、何しますか、狐面買いましょうか」 「いいにおいがする!」 「…うん、まあわかってましたけどねー…どうせ食い気ですよねー」 とりあえず林檎飴、と青い飴がけの林檎を買い与えると、物も言わずにかぶりついた。 あーあー渡しておいてなんだけど顔も手もべったべたですねー、これからソースとかざらめとかいろいろつくんでしょうねー、いいですけどね。 散々齧り倒したあとで、幼い主はべたべたの手で佐助の袖を引く。 「さすけっ、さすけ、うまいぞ!」 「よかったですね」 「うん!さすけは食わないのか?」 「俺はただの付き添いですから」 「でもうまいぞ!」 「うん、よかったね」 やわらかく微笑んで見せると、素直な主は大きく頷いて笑い返してくる。 誤魔化すつもりではなかったのに、それ以上追求されることはなかった。 そのあとも、水あめがでかいから垂れる前に一口食えだのたこ焼きが熱いから半分食べて冷ましてくれだの、我侭のような気遣いをわらってかわしながら手を引いて歩いて行く。綿飴は帰りがけに買っていけばきっと喜ぶだろう。 この、人は人を疑うことをしない。この戦乱の世で武将として人を疑う必要のないまま生きていくことはできないだろうが、せめてその機会はできる限り先であれば良い。純粋であっても単純ではないひとだからきっと大丈夫だろう。 やわらかいこどもの手を握りながら生臭いことを考えるべきではないだろうか。けれども佐助は忍びなので、それが現実である以上何一つ切り離して考えることはできないのだった。 ぼんやりと考えているうちに、主は次の目的を見つけたらしい。繋いだ手をぐいぐいと引っ張って、人通りの先を指差す。 「あれはなんだ?」 「んーー?どれですか」 「あの赤い旗印だ!」 「旗印ってただの幟なんですけど、まあいいけど…あれは金魚すくいですよ」 「きんぎょ、すくい?」 かわいらしく首をかしげる姿は微笑ましいのだけれど、手にした齧りかけのいか焼きがなんとも生臭くていけない。小さな体に良く入るものだと、絶食してもしばらくは平気な佐助などはある種の感動すら覚えている。食べるか寝るか鍛錬しているか、しかないんじゃないだろうかこの人は。 「いってみますか?」 「いく!」 元気よく答えた主の手はやっぱりいか焼きを振り回していて、なんだかなあと佐助は思うのだった。 やがて辿り着いた幟の下、水を張った木桶を覗き込んだ主は小さく息を呑んだ。 あかいさかながちらちらとゆれる灯りに背鰭をきらめかせて泳いでいる。 「きんぎょというのはさかなであったか」 「ぎょ、っていうのは魚ってかくんですよ」 「ほう」 「…わかってますか?」 「わからなくてもここに魚がいるからいいのだ」 それはある意味哲学的なんだろうか。 「これをどうするのだ?食べるのか」 「いや金魚は食べられないんじゃないかな…ただきれいでしょう?これを、あの紙ですくえたらもって帰れるんですよ。やりますか?」 「やる!」 「じゃあ、一回お願いします」 一度目、勢いよく突っ込んだ紙は水圧で破れた。 二度目、ゆっくり降ろしては見たものの、激しく動かした紙は水圧で破れた。 三度目、そろそろと動かしすぎて水に溶けた。 四度目、ようやく魚に触れたと思えば紙を破って逃げられた。 「…さすけ…」 「あー…いまのはちょっと惜しかったじゃないで、」 「さすけぇ…」 気休めのような言葉はあまりにも情けない主の声で遮られた。 「どうします?もっかいやる?次は掬えるかもよ?」 「もうやめる…」 ぎゅっと眉根を寄せた顔は悲壮感すら漂っていて、たかが金魚すくいなのに胸を締められるような気がした。けれども主が言うのならば佐助はそれに従うしかない。金魚すくい屋が「おまけだ」といって渡そうとした金魚も公平ではないと辞退して、それでもしばらく木桶を見つめているので。 「親父さん、もう一回分」 「さすけ、もういいと…」 「俺がやるんですよ」 「…さすけが?」 「ちょっと、弁丸さまから逃げたあのおおきい金魚が気になるので」 他の金魚より一回りも二回りも大きな白と赤のさかなを指す。実際もっと小さいものだったら主にも掬えていたのではないだろうかと佐助は思う。いつ何時でもその場での最上を目指す姿勢は褒めてやるべきだとも思うのだが。 「…すくえるのか?」 「俺を何だと思ってるんですか?」 「さすけ」 「………あってるんですけどね」 そこは忍びと答えるのが筋というものだろう。公言するような身分ではないが幼い主が舌足らずに語る真実味など知れたものだ。けれども名を呼ばれることも決して悪い気分ではない。名を呼ぶほどの価値などないのだということがわかるまでの、ほんの少しのことだとしても。 主は息を詰めて佐助の手元を見つめている。その横顔にちらりと視線を走らせて、水面へと紙を滑らせた。 そうして易々と掬い上げたさかなは、主を随分喜ばせたのだった。 往きと同じ帰り道を手を繋いで歩いている。主の首には水笛が、頭には狐麺をつけて、佐助は左手に綿飴を下げている。帰ったら欲しがるだろうこれを明日まで隠しておくことが今日最後の任務だ。ゆっくりと歩く主の右手で、ちゃぷんと金魚が跳ねた。 「きんぎょ」 「はい」 「いいな、きんぎょ」 「よかったですねえ」 「うむ、さすけのおかげだ」 ほんとうは一匹だけではなくもっとたくさん掬い上げたのだ。それこそ金魚屋が青くなるほどに。けれども幼い主はさいしょの一匹しか要らないというものだから、佐助も無理強いはせずにそれ以外を離してきた。まあたしかに六十八匹も金魚が蠢く姿はなかなか気持ちが悪かったと思う。連れて帰るといわれなくて幸いだ。 「さすけはなんでもできるのだな」 「できることはね。できないことは何もできませんよ」 「よく、わからぬ」 「そうですか?」 「うむ。さすけのことはなにもわからぬ」 「俺は忍びですからね」 「しのびはわからぬのか?」 「ええ、弁丸さまに悟られるようでは忍び失格です」 「そうか…」 真っ暗な道をふたりで歩いている。少しずつ小さくなっていく主の声に、これは眠いのだろうと辺りをつけて、一思いに抱き上げた。 「某はさすけのことがわかるあるじになりたいのだがな」 最後に呟かれた言葉は聞かなかったことにして、あとはもう真っ直ぐに城に帰るだけだ。 布団に転がすまで夢現の状態だった主は、最後に首をもたげて金魚を見つめた。そうして笑みを浮かべたまま眠りについたのだった。 実に微笑ましい光景だとおもう。綿飴を巡る攻防も繰り広げずにすんだ。 「…枕元に…」 主が蹴飛ばさない位置に水入れを置いて金魚を浮かべ、そっと主の部屋を辞した。 後から思えばそれが間違いだったのかもしれない。その晩くらいは佐助が持ち帰って、それなりな仕掛けを作るべきだったのだろう。けれども朝、目覚めてすぐ近くに泳ぐ金魚を見れば主は喜ぶだろうと思ったのだ。 喜ぶ顔を見たかったのだ。 ただそれだけだった。 翌朝、いつも通り主の部屋までやってきた佐助の耳に飛び込んだのは忍びを呼ぶ主の声だった。いつだってくるくると変わる感情の起伏を見てきたので、この声が喜びでも驚きでもなく怒りだということがわかる。わかるようになった。 何があったのか、何かあったのか。 「弁丸さま!」 「さすけ!!」 障子の向こう側に声をかけると、血相を変えた主が転がるように飛び出してきた。 動転している主をまずは受け止めて、主自体には異常がないことを確認する。 怪我もないし熱もない。まずは一安心。けれども主の動揺は止まらない。 「どうしようどうしよう、どうすればいいのださすけ?!」 「弁丸さま?どうしたんですか?」 「きんぎょが…」 「金魚?」 「う、みるのだ!!」 引きずられるように部屋に入ると、主が抜け出したままの布団がまず眼に入る。 綺麗に寝るくせに起きだすときに暴れるものだからいつだってぐちゃぐちゃだ。 次に見えたのは、真っ白な手拭に乗せられた赤いさかなだった。 「弁丸さま、これ」 「めがさめたらみずのそとにいたのだ…」 「容器は?倒れていましたか」 「なんともなかった」 「…じぶんで飛び出したのか…」 昨夜のきらめきをなくしたさかなは、濁った眼でふたりを見上げている。 大きなさかなだった、すこし跳ねれば浅い木桶の縁など軽く飛び越せただろう。 その先に、何があると思っていたのだろうか。 「どうしよう、水に入れてももううごかなかったのだ、だからだしてみたけどやっぱりうごかないのだ」 「…乾いてしまったんですね…」 「でもっ、でもきのうは動いていたのに!」 「…」 「…もう、だめか」 「…俺が悪かったんです、もっと縁の高い器に入れておけば…」 「ちがう、さすけのせいではない。せっかくたくさんすくってもらったのに、…いっぴきだけ連れて帰ってきたのがわるかったのだ…」 これは完全に佐助に非がある。逃げ出すことなど考えもしなかったのだ。 この幼い主の手の内から逃げることなんて、佐助には想像すらできないのだ。 「某が、こんなところに連れてこなければ、」 「弁丸さま」 「…う…」 「弁丸さま、」 「ううう…」 顔を歪めて泣き出した主をどう扱っていいのか、慰めて良いのか下手に触れないほうが良いのかを決めかねて、佐助は少し考える。一匹だけ、主が選んだ1匹だけのさかなをこのまま腐らせるのはしのびない気がした。 「剥製、作りましょうか」 「はく、せい?」 「腐らないように加工するってこと。もう生きてはいないけど生きてるみたいに綺麗な姿でずっと、」 「やめよ!」 ずっと取って置けるよ。 純然たる誠意で発した言葉は絶叫に近い怒声で遮られた。 大きな眼がまん丸に見開かれていて疲れるんじゃないかとどこか冷めた思いで見返す。 涙すら忘れたような姿が佐助には理解できなかった。悲しみと違って、主の怒りは佐助に上手く届かない。何が起因なのかさっぱりわからないのだ。 「でもせっかく掬ってきたのに一日で終わりなんてかわいそうじゃない」 弁丸さまが。 死んでしまったらもういらないって言われてしまうあかいさかなも。 「そんなことは、しなくていい」 「綺麗だから欲しがったんじゃないの」 「ちがう」 「違うの?掬い上げて閉じ込めて、綺麗なところを見るために買ったんじゃないの」 「ちがう…」 「どうせ限られた場所でしか泳げないなら動かなくても一緒なんじゃないの」 「ちがう」 「生きてるみたいにきれいでも、生きてないならいらない?」 「ちがう!!」 「違うの?」 「ちがう!ちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがう!!」 叫び声とともに大きく頭を振る主の姿はさながら嵐のようだ。 赤く上気する顔はいまにも火を噴きそうなのに、鮮やかに瞬く瞳から涙が溢れることはなかった。それでは、やはりもうこれは悲しみではないのだ。 「そんなことのために、連れて帰ったわけではない!」 じゃあ、それ以外に何の意味があるの?という言葉は辛うじて胸に収めた。 赤い魚を挟んで向かい合う幼い主は、小さな拳を握り締めてまっすぐ佐助を睨みつけてくる。どこまでも真っ直ぐ射抜くような目は佐助にとって馴染み深いものだったが、込められた覇気にわずかに気圧された。 「さすけはなぜそんなひどいことを言うのだ…!」 力いっぱいしがみ付いてくる主に腕を回して引き寄せた。ぎゅうぎゅうと堅く握り締められた指を開いて、膝にかかる重みと体温を感じながら赤い魚をそっと脇に寄せる。無意識のうちに押しつぶしてしまったらきっと主は泣くだろう。これ以上主に酷い顔をさせたくはない。 両腕を背中に回してそっと撫で上げながら、あやす様に「ごめんね」と耳元で囁く。泣き声はいつまでも聞こえてこなかったけれど、しがみ付く腕から緩やかに力が抜けていった。ゆっくりと膝の上の主を揺すり上げながらこのまま眠ってしまえば良いのにと思う。ひどいことをした佐助にしがみ付いている事実を主は何を思うのだろうか。 けれどもその『酷いこと』が何を指すのか佐助にはちっともわからないのだった。
きれいな神さまのいる 夜に [ きれいな神さまのいる夜に / 真田主従 ] 一作前の真田主従の揚げ足取り。真田6歳・佐助12歳…とか? 普通にやさしい佐助といまだに得体の知れない真田。 跳ねて逃げる道がないわけではないのに見ることができない佐助…? だって忍びだもの。 え?あ、祭り??時代考証なんて言葉はBASARAには似合わないぜ(何その捨て台詞) |