「わたしは、天下などどうでもいいのですよ」 なぜ、貴様のような輩一人にわが軍が…! いつも通りの言葉を最後まで聞くことなく、歪に流れる鎌を振り下ろして銀髪の鬼は呟いた。蒼天の下ではおそらくまぶしすぎるだろうその色彩は、今はただ静かに月影に煌いている。敵も見方もなく斬り進みながら、返り血すら浴びないその姿に感じるものは得体の知れぬ恐怖ばかりだ。法則性がない分、織田信長―主に当たる彼の人よりその感は強いかもしれなかった。 数多の武将がひしめくこの戦乱の世、何の思想もなく人を斬り続ける。あるいは何もないこと自体が理由なのかもしれなかった。が、一つ一つ丹念に切り刻んでいく猟奇的な手法、ギリギリのところで刃を引く残酷な性根、血飛沫に煙る景色の中で艶やかに嗤う表情、それらを見る限り純粋な殺意とは程遠いのではないかと思う。 銀髪の鬼は―明智光秀は人を殺したいわけではないのだろうか。 禍禍しい曲線を描く黒い刃からどろりとした血が滴り落ちる。それを無造作に振り払って、ようやく光秀は敵将の屍から目を反らした。見る影もなく切り裂かれたそれは、首代以外はとても人とは思えぬ躯を晒している。こうした姿にももう随分 と慣れてしまった。恐らく自分はとても運が良いのだろうと思う。こうして何度も円舞にも似た殺人劇を眺めながら一度も斬られたことがないのだから。最も、一度でも斬られてしまえばそこでその鑑賞は終わりだ。たとえ命があったとしても―物理的に二度と近寄ることはできない。異様なほど鋭利に磨き上げられたあの刃にかかって五体満足でいられるはずがないからだ。 だから本当は、ここにいることを悲しむべきなのかもしれない。いくらでも代わりの効く雑兵風情がこんな場所で何をするというのか。実際のところ光秀のそばにいれば光秀以外に斬られることはないのでそれはそれで確立は同じ程度なのかもしれないが。死ぬ確立、生きる可能性、同じだけなら打ち消し合って全ては無いのと同じことだ。 戦場、なのだから。 勝利に沸くざわめきの中で斬る者を亡くした光秀は物憂げな様子で佇んでいる。そしてその光秀をぼんやりと眺めている。相変わらず銀糸は月明かりに映え、病的に白い肌は闇に滲むことなく浮かんでいた。つまるところ彼の人はどこまでも色素が薄いのだ。 光秀のそばで臓腑から飛び散る様を見て以来、血は真紅ではないことを知った。どす黒くて生暖かい液体、時には凝固しか けた。だが光秀は、あるいは血の色も薄いのだろうか。まだ見たことは無いのだけれど。 そうしていつまでも呆然と立ち尽くしている―はずだった。今までは。 しかし今夜は。 「…さて、」 囁くような声が夜風に流れ、同時に銀糸も攫われて表情は伺えない。が、確かに光秀はこちらを振り返っている。話しかけられているのだと気付いたのは次にかけられた言葉からだった。 「あなたはそこで何をしているのですか」 「光秀様」 「何か?」 「恐れながら申し上げます。怖くは、ないのですか」 「何がです」 「人を、そのように斬り刻むことが」 「…怖い?」 光秀はほんの僅か首を傾げて倒れ臥した屍体を眺める。もはや原形をとどめず、血といわずあらゆるものが流れ出るその姿を人と認識することはできるのだろうか。 「今まで生きて動いていた者が光秀様に切り刻まれることによって動かなくなるのです。今までそれを動かしていたモノはどこへ行くというのです」 「わたしが斬り刻んだのですからわたしの中にあるのかもしれませんね」 「光秀様の中に」 「ええ、わたしの中に」 「それは本当ですか?」 自分だって人を殺したことはあるのだ。けれどもそんなものが流れ込んできた記憶は無い。が、幾千万と人を斬る彼の人であればそれもまたありえるのかもしれなかった。半ば本気で尋ねたのだが、光秀は小さく目を見開いて「そうだったら面白いですね」と嗤う。ではやはりそんなことはないのか。 「残念そうですね」 「光秀様の中にいるというのはとても説得力がありましたので」 怨念が渦巻いているのでしたら良くお似合いだと思いまして、とは胸の中だけにしまっておく。恐らくは斬った人間の顔など覚えてはいないだろうこの人の中にそれと意識せずに意識が渦巻いている。それはとてもグロテスクで美しい光景だろう。飽きることなく光秀を見つめていると、彼はまた少しだけ嗤った。 「では斬り刻まれて見ますか?」 「……光秀様が望むのであれば―」 口腔から零れた言葉に自分自身が一番驚いた。嗤いではなく哂いを浮かべた光秀は顔色一つ変えず、それ以上何も言わなかった。…ああそうか、そうなのだ。誰も望みはしないこの場所を誰にも譲らなかった理由は、そして理由を無くしてからいつまでもこの場に留まっていたのは何のためか。 いずれ戦場に散るならばその禍禍しい腕で散りたいと願ったのだ。人は死ぬ、あまりにも簡単に、意味も無く理由も無くただ彼の人やその主がそうしようと思う、いや思わずとも。 望むのであれば―、光秀は何も望まないだろうけれど。何の理由も無く人を斬る彼は、恐らく人に斬られたい人間は斬らないなどということも言いはしないのだ。 そうして彼はほんの少し物憂げに、しかしていとも簡単に。 禍禍しい刃が閃いて、さくりと胴が開かれた。そのまま幾度か往復する動作で左手首と右目が切り裂かれ、あとはただ圧倒的な異物感が痛みを凌駕していった。仰向けに倒れた形で、残された左目で闇に融ける白い姿を見ていた。淡い唇が薄っすらと開いて感情の篭らない声が聞こえる。 「わたしは誰の命にも興味など無いのですよ」 存じ上げております、光秀様。 紡ごうとした言葉は臓腑から溢れた血に紛れて消えた。やはりどこまでもどす黒いそれは器官を犯し、呼吸を奪い、果ては視界さえも覆ってゆく。後悔も余韻もありはしないが、最後に彼の血の色は見て逝きたかったと少しだけ思う。誰の前でなら血を流すのだろう。自分の前では、決して無い。 この体が肉塊に変わった後もあの銀糸は闇に融けるのだろう。
[ 世界葬まで / 誰か→明智光秀 ]
誰でもいいんですが光秀の近くにいた誰か視点で光秀論 あ、意図したわけではありませんがこれ死にネタですね グロにも入りますか |